「慙(ざん)」とは“謙虚に自分を見つめること”

2014年1月27日(月)更新:3
【名字の言】
 自分のプレーやフォームを映像で確認することは、芸能やスポーツの世界で当たり前になっている。だが、昔はそんな便利な機械はなかった。どうしたか▼「離見(りけん)の見(けん)」という言葉がある。室町時代の能の大成者、世阿弥が言った。己を離れ、観客席から見るつもりで、演者の自身を見る。その時こそ「わが姿を見得(けんとく)するなり(自分の姿が見える)」との戒めである▼能では、シテ(主役)が舞い終えると幕の内に入り、大きな鏡の前に立つ。装束(しょうぞく)も面も着けたまま、客席に見えていたであろう自分の姿を見る決まりがあるという。二十六世観世宗家の観世清和氏は、“舞台の出来不出来を突きつけられる厳しい時間”と(『能はこんなに面白い!』小学館)。この省察と精進が、700年の伝統を築いた礎と実感した▼どの世界でも、活躍する人は、自分の成長を測る“物差し”を持っているものだ。仏道修行の根幹も同じである。御義口伝は、法華経に説かれる「七宝(しっぽう)」を、修行に肝要な七つの宝に配する。その一つ「慙(ざん)」とは“謙虚に自分を見つめること”▼日々の勤行・唱題の中で、御本尊という“生命の鏡”に照らし、自分を見つめる。そして、行動に打って出る。その積み重ねが、明日の勝利へつながる。(馨)
   (聖教新聞 2014-01-27)