「只 信心の二字」に御本尊の大功力

2012年4月8日(日)更新:3
【池田名誉会長講義 勝利の経典「御書」に学ぶ】
●ともあれ、いかなる生命も本有の十界互具・一念三千の当体です。本来、削るべき無駄も、付け加えるべき不足もない。喜怒哀楽のない人生はありませんし、生老病死という生命本然の苦悩も、どんなに忌み嫌ったところで避けるわけにはいかない。
 十界具足が生命の本来の姿であり、十界のいずれも皆、妙法の生命の現れです。その根源的な生命を引き出し確立するための御本尊であり、引き出すための信心です。
 まさに、御本尊の相みょうは、法華経の諸法実相の法理に基づくものであり、凡夫がそのままの姿にして、仏の偉大な生命を開き顕わせることを教えられています。
 このような御本尊は、それまでの仏教には見られませんでした。荘厳な仏や菩薩が刻まれたり描かれることはあっても、凡夫成仏を実現する十界互具の曼陀羅はありません。万人を「本有の尊形」と照らし出す御本尊、すなわち「全民衆のための御本尊」を、日蓮大聖人が初めて顕わされたのです。まさに、「人間のための宗教」の世界を示された「未曾有の大曼陀羅」にほかなりません。
●大聖人は、御本尊は外にあるのではなく、題目を唱える自身の胸中にあると言われるのです。外から内へ、「胸中の肉団」へ――なんと劇的な転換でありましょうか!
 当時も、いな現在においても、次のような考え方が根強くあります。“現実の人間は、つまらない卑小な存在だ。これに対し、究極の実在、永遠の価値は自分の外にある、どこか遠くにある”と。こうした思考と、外なる世界に存在する超越的な力にすがる信仰とは、いわば地続きのものです。
 日蓮仏法は、この固定観念を打ち破ります。今ここで生きている凡夫の身に即して、永遠にして究極の法が顕われるという生命の真実を見るのです。
 そもそも「ブッダ」とは「目覚めた人」という意味でした。何に目覚めたのでしょうか。自身が本当に依りどころとすべきもの、すなわち法と、真実の自己です。
●この御本尊がある「胸中の肉団」とは、別の言い方をすれば「九識心王真如の都」です。九識は阿摩羅識、根本浄識などともいわれ、これを「心王(しんのう)」と立てます。「真如」とは虚妄(こもう)を離れたありのままの真実であり、心の「王」の住所であるゆえに「胸中の肉団」、私たちのこの生身の肉体が「都」と言われます。
 法華経の行者であられる大聖人が成就された仏の生命――真如と一体の大聖人御自身の生命、すなわち「日蓮がたましひ(魂)」そのものを顕わされたのが御本尊なのです。
●「われわれが信心すれば、日蓮大聖人様の所有の根本の力が、われわれの生命に感応して湧いてくるのです。われわれもやはり、ありのままの永遠真如の自分にかわるのです」
●御本尊の功徳力は、私たちが信心を起こした時にはじめて現れます。まさに、御本尊は、私たちの「信心の二字」に納まっているのです。
  (大白蓮華 2011年12月号)