謗法の山には、わが魂は住まず!

2014年1月22日(水)更新:2
・『慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり』
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【新・人間革命 正義 十七】
 学会が、「神本仏迹論」を唱えた笠原慈行の誤りを正したことに対して、宗会は、会長の戸田城聖一人を処分の対象としていた。
 戸田は、そこに、会長の自分と会員とを離間させようという意図を感じた。そして、今後も広宣流布を破壊する魔は、その手法を用いてくるにちがいないと思った。
 異体同心の団結こそ、広布推進の要諦である。なればこそ、会長と会員を、また、会員と会員を分断させようと、魔軍は、そこに狙いを定め、躍起となるにちがいない。
 ともあれ、戸田は、生涯にわたって、総本山の整備や末寺の建立など、宗門に尽くし抜いた。自ら発願主となって大講堂も建立寄進した。とともに、宗門を腐敗させたり、大聖人の御精神に違背する僧とは、戦い抜いていった。いずれも、外護の赤誠の発露である。
 戸田は、悪を正さなければ、大石寺も、身延のように、謗法の魔の山となってしまうことを、憂慮していたのだ。
 身延は、日蓮大聖人が晩年の八年を過ごされ、直筆の御本尊も、重要な遺文なども残っている。しかし、大聖人の正法正義は踏みにじられ、謗法にまみれていった。
 大聖人は、日興上人に、「地頭の不法ならん時は我も住むまじき」(編年体御書一七二九ページ)と御遺言されている。つまり、“謗法の山には、わが魂は住まず!”との、御本仏の御宣言である。
 日興上人は、その御指導にしたがって、身延を離山されたのだ。御本仏の魂なき謗法の山に詣でれば、悪縁に触れて信心を狂わせ、供養すれば、悪因を積むことになる。
 大聖人は、「衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり」(御書三八四ページ)と仰せになっている。そこに集い、守る人びとの信心が、その場所が浄土か穢土かを決していくのだ。
 したがって、地涌の使命に生きる創価の同志が集う、広宣流布誓願の場こそ、最高の霊山浄土となるのである。
   (聖教新聞 2014-01-22)