文化 国宝「金印」の歴史的意義 他

2014年2月21日(金)更新:4
【南米ウルグアイ 支部結成30周年記念総会】
●教育文化省のアルバレス総局長、タクアレンボ県のオテギ副事務局長が出席した総会。同県からSGI会長に顕彰盾が(ウルグアイ文化会館で)
支部結成30周年の記念植樹。ウルグアイ広布の大発展を若木に託して(同)
●1997年に開館したウルグアイ文化会館。地域の希望のオアシスと輝いて

池田大作SGI会長の平和貢献を讃えタクアレンボ県から顕彰盾》
《バジェ元大統領夫人が祝電 共に幸福と勝利を!》
 【モンテビデオ18日】南米ウルグアイ支部結成30周年を記念する総会が18日(現地時間)、首都モンテビデオウルグアイ文化会館で開催された。池田SGI(創価学会インタナショナル)会長はメッセージを贈り、広布へ進む友を心から賞讃。仲良く、異体同心の団結で朗らかに前進をと呼び掛けた。さらに、メルセデス・メナフラ・デ・バジェ元大統領夫人が祝電を寄せた。席上、タクアレンボ県からSGI会長に「顕彰盾」が授与された。

 ただただ、師匠に会いたい一心だった。
 1984年2月。ウルグアイの同志は、池田SGI会長が滞在するブラジル・サンパウロへ向かった。
 当時のウルグアイは軍事政権の末期。とはいえ、会合を開くには警察への届け出が必要で、監視が来ることもあった。
 苦難の中で不屈の歩みを続けてきた友また友。サンパウロではSGI会長と感激の出会いを果たし、共に勤行を。記念撮影を行い、「ブラジル大文化祭」にも出席した。
 そして懇談の席上、待望のウルグアイ支部の結成が発表されたのである。
 「感動で胸が熱くなりました。ウルグアイで、いよいよSGIが大発展していく時が到来したのだと感じました」
 その場にいたメンバーの一人、壮年部のミゲル・アリアジさんは振り返る。
 この時、経済的な困難を乗り越えてブラジルを訪れた。寸暇を惜しむように一人一人を励ますSGI会長の姿に触れ、一緒に勤行しながら、涙があふれて仕方なかった。
 「師弟不二の道を貫こう。池田先生の弟子として生き抜こうと決めた瞬間でした」
 以来、最前線の「ブロック」を大切にし、仕事が終わるや、訪問激励に歩いた。
 徹して一人のために――その思いは、今も昔も変わらない。

   (聖教新聞 2014-02-21、以下同)


【名字の言】
●フランスからオランダへ向かうSGI会長の行程が空路から陸路に変更になり、ベルギーを通ることに。その知らせは、すぐにメンバーに伝わり、25日午後7時過ぎにはホームに30人ほどが集まっていた。移動の車中にも、随行する同国の友がいた。「今、フランスとの国境を越えて、ベルギーに入りました」。友の報告を聞いたSGI会長は合掌し、静かに題目を唱える。「ベルギーの全ての人の幸福と健康を祈ったよ」。友の目から涙が止めどなくあふれた


ウルグアイバジェ元大統領夫人からの祝電】
《女性が輝く未来へ 香峯子夫人に学びたい》
ウルグアイSGIの支部結成30周年の記念すべき日に、心からの喜びと尊敬を込めて祝電をお届けします。
 2001年4月16日の月曜日、私は光栄にも、池田SGI会長と香峯子夫人にお会いしました。
 この時の温かな出会いの感動は、今もって実感として蘇ってきます。
 また、あの日、日本とウルグアイの国旗を一生懸命に振って、私たちを迎えてくれた若者たちの歓喜の姿を見て、感激で胸が高鳴ったことをはっきりと覚えています。
 香峯子夫人は、女性に対する愛情あふれる激励を重ねるとともに、女性を苦しめ、悲惨な結果をもたらす憎むべき戦争、また、その後も続く、極度の困難な状況を克服すべく尽力されました。その行動に対して深く尊敬の念を抱いています。
 混迷の社会にあって、香峯子夫人のような、強靱な精神力をもつ女性の役割が、ますます重要になっています。
 今日、ウルグアイでは、過去の暗い時代に比べ、国民のより良い暮らしの建設のために、女性がその潜在力とリーダーシップを発揮できる可能性が高まっています。
 同時に、この可能性を示すことは、人間性の高い価値観を有する女性たちの責務です。
 ここに集われた皆様と共に、今後のさらなる発展を誓い、次の言葉を分かち合いたいと思います。
 「共に勝利しましょう」
 この記念すべき日を心から祝福申し上げます。


【文化 国宝「金印」の歴史的意義】
〈小さな一品だが大きな意味〉
●金印は、歴史の教科書にも掲載される比較的知られた国宝だが、展示室では「小さい」という声をよく耳にする。そんな小さな一品でも歴史的な意味は大きい。
 江戸時代の天明4年(1784年)2月23日(現在の暦では4月12日)、金印は博多湾の入り口にある志賀島で作業中の農民によって偶然に発見された。今から230年前のことである。
 発見後すぐに、福岡藩儒学者亀井南冥が金印の重要性を指摘した。すなわち金印は、中国の歴史書後漢書』に記載された建武中元2年(57年)に後漢光武帝倭奴国に与えた「印」と考えられるのである。西暦57年は日本の弥生時代後期に相当する。
 約2000年前の金印という物証と中国の文献が一致していること自体が重要であり、日本の歴史を具体的に語る最初の史料である。

《公文書を発信する際に使用》
〈3列の文字の読み方には諸説〉
●一列目の「漢」の文字は印を与えた中国の王朝名で異論はない。議論が分かれるのは、印を受け取った側を示す二列目の「委奴」の読み方である。
 江戸時代には「委」を「倭」の略称として日本を意味する「ヤマト」とする説と福岡市の西隣の糸島市に中心があった伊都国を意味する「イト」と読む、大きく二つの説に分かれた。
 今日では「委」=「倭」は「ワ」と読んで民族名を表し、「奴」を「ナ」と読んで魏志倭人伝に記された「奴国」のこととして「漢の委(わ)の奴(な)」とする読み方が主流で教科書にも記載されている。

漢帝国での地位を示す〉
●漢代には公文書を発信する際に、封をする印が必要だった。そのため、文章を発信する皇帝以下すべての役人は役職に応じた印を所持した。逆に言えば、印を受けることは官吏(かんり)に就くことを意味する。その材質や刻まれた文字は、所有者が漢帝国の中で占める地位を示すアイテムでもあった。
 そしてさらに、漢は国外の異民族の支配層にも印を与えて、周辺の国をも皇帝を頂点とした秩序に組み入れようとした。その一つが金印「漢委奴国王」である。また倭にとっての金印は、漢を中心とした東アジア外交へ正式にデビューした証しとも言えよう。