日本一の幸福の春に輝け

2014年2月24日(月)更新:5
【太陽の励まし 池田名誉会長と誓いの同志(とも) 〈64〉 福井】
 「わが福井よ、『日本一の幸福の春』に輝け! それが私の願いである」
 池田名誉会長は「随筆 新・人間革命」につづった。
 福井は北陸に位置するが、学会においては「常勝関西」の北の砦を担う。
 草創の同志は大阪支部、堺支部などに所属した。
 1956年(昭和31年)、若き池田名誉会長が指揮した「大阪の戦い」の中で広布は伸展し、57年(同32年)7月17日の「大阪大会」にも、多くの福井の同志が参加している。
 名誉会長の初訪問は、総務時代の59年(同34年)3月24日。武生市(現・越前市)の会場に集った1700人の同志に御書を講義し、質問会も行った。
 今春、55周年の佳節を迎える。
 以来、訪問は7度。
 戦後に地震、豪雨、火災などが続いた国土の宿命転換を訴えた。旧習深い「仏教王国」の中で懸命に戦い、宗門の迫害に耐え抜いた同志を守り、励ましてきた。

敦賀の撮影会》
 名誉会長が県南西部・嶺南地域の中心都市・敦賀を再訪したのも、3月だった。
 72年(同47年)3月14日の記念撮影会である。
 福井の名勝・東尋坊に爛漫の桜をあしらった大きなパネルが、目に飛び込んでくる。スピーカーからは、ウグイスやカッコウの鳴き声、小川のせせらぎも。師を迎え、友の心に春がやってきた。
 3500人を12グループに分けての撮影。その合間にも、名誉会長はマイクを取り、また学生や整理役員、アトラクションの出演者の中に分け入るようにして、激励を続けた。
 「自分が今いる、その場所で頑張り抜き、真実の仏法の力を証明していくことが大事です」
 「粘りある明るい団結で、どこの地よりも功徳に輝く福井を築いていってほしい」と。
 会場からは、何度も喜びの歓声が上がった。
 この日、救護役員だった敦賀市の石橋峰枝さん(若狭勝利県)。
 どよめきが聞こえるたびに、会場の様子が気になる。休憩時に、そっと会場の中をのぞきに行った、ちょうどその時である。
 撮影台から撮影台へ移る名誉会長と、ばったり鉢合わせになった。
 石橋さんの白衣姿を見た名誉会長は、「病気の人はいないかい?」と優しく声を掛け、ねぎらった。
 すぐに役員に促され、名誉会長は次の撮影台へ歩いていった。
 瞬間の出会いだったが、「こんな急いでいる時にも、目の前の一人を大切にされるのか」と、その声とまなざしは、きのうのことのように、石橋さんの目に焼き付いている。
 「“一人の患者を大切に”という看護師の姿勢を命に植えてもらった気がします」
 40年間、准看護師を務めた後、現在は学会の支部婦人部長として、地域と同志に尽くす貢献の人生を歩み続ける。

《両手をさすって》
 7度の訪問の中でも、81年(同56年)11月24日、武生文化会館(越前市)に現れた名誉会長の姿を見た時ほど、福井の友が感激したことはない。
 福井は、悪侶の罵声に耐え、黒い陰謀と戦った、第1次宗門事件の激震地の一つだった。
 同月8日、大阪に着いた名誉会長は、9日に四国に入り、“反転攻勢”の激励行を開始する。15日、大阪に戻り、和歌山、奈良、大阪、滋賀を駆け巡った後、いよいよ福井に向かったのである。
 鯖江市に住む新井富美子さん(越前大光県、婦人部副本部長)宅の電話が鳴ったのは24日の夕刻だった。“早く武生文化会館に”という幹部からの連絡だった。
 夫の真一さん(故人)と共に会館に着いた時、午後5時をとうに過ぎていた。県代表会議の参加者は、もう2階の広間の中だ。
 「お父さん、早う!」
 富美子さんが真一さんをせかしながら、靴を下足箱へ入れ、振り向いた時である。
 事務所から出てくる人影が見えた。「“あら、先生によう似てるな”と思ったら、ほんとに先生やがね!」と振り返る富美子さん。
 名誉会長は真一さんを見つけ、歩み寄って手を握った。
 「ご苦労さま!」「冷たい手だね! 冷たい、冷たい!」。駆け付けたばかりの真一さんの手を、両手でさする。
 あわてて富美子さんも駆け寄り、3人で手を重ねるように握手。温かく、柔らかい師匠の手から、同志を思う心が、じんと伝わってきた。
 到着から会合までの間、名誉会長に休む暇はなかった。
 会館の一室で取り組んでいたのは、机一面に並べた書籍に、同志の名を揮毫することだった。
 「まだいないか?」「まだいないか?」
 腕をまくって筆を振るう勢いは、福井の幹部が、名前を挙げるのも追いつかないほどだったという。
 握手の後、新井さん夫妻は名誉会長の後ろに付いて、会場へ階段を上っていった。
 「直前の急いでおられる時なのに、あんなにして、ねぎらってくださって」
 夫妻もまた、名誉会長の一人を大切にする気迫に触れ、それを自身の人生の目標にした。
 真一さんは一級建築士として活躍する一方、地域で区長を8年務めた。
 富美子さんも民生委員を20年にわたって担い、生け花教室を開くなど、地域に信頼を築いてきた。
 「昨年、近所の方に弘教が実ったんです。池田先生の後にくっついて、いつまでも元気で地域のために歩きたい」


《「大きいね!」》
 79年(同54年)9月のある日の深夜、名誉会長は福井に一本の電話を入れた。
 会長辞任の5カ月後。行動を制限され、激励も思うに任せない状況の中、福井の同志が心配でならなかった。
 「皆さんも、悔しいだろう。しかし、こんなことが、いつまでも続くわけがない」
 「仏法は勝負だ。正義は必ず勝つ! 10年後には、はっきりするよ!」
 その勝利宣言の日は10年を1年過ぎた、90年(平成2年)10月22日にやってきた。
 「皆さまは、見事に勝ちました!」
 17年ぶりに県都福井市を訪問し、「日本海3県合同総会」で、高らかに宣言したのである。
 会合の直前、名誉会長は福井の未来部の代表と会った。
 福井と関西の「希望の春」を開くべき、使命の人々の代表である。
 当時、小学6年生の笠松勇志さん(福井創価県)も、高等部・中等部のお兄さん、お姉さんに混じって、会館の3階で名誉会長を待つ、その列に加わった。
 エレベーターの扉が開き、名誉会長夫妻が歩いてくる。
 一人一人、声を掛ける名誉会長の足が、笠松さんの前で止まった。
 左胸に付いているネームプレートに手を掛け、「いいね、これ!」とにっこり。
 はにかむ笠松さんに「何年生?」。
 「6年生です!」
 「大きいね!」と名誉会長は力強く言った。
 実際の笠松さんは、背が小さいほうだった。
 病気がちで、いじめを受けることもあった。「それが、言われた瞬間、心が大きく広がった気がしました。“心の大きい人になろう”と思えました」
 笠松さんは今、男子部本部長。本部未来部長も兼任し、後継の育成に携わる立場だ。
 「隅っこで目立たないようにしている子ほど、励ましを求めているんです。僕自身がそういう子でしたから。そんな僕を、先生は真心で励ましてくださった。その『心』を伝えていきたい。今いる場所で勝利の実証を示したい」
 一瞬の出会いに、思いを込める。一瞬の出会いの意味を考え、生涯をかけて深めていく。これが創価の「師弟」の生き方だ。
 福井の天地には、その歴史と行動が輝いている。
 名誉会長は詠んだ。

  胸と胸
   心と心の
     同志かな
   久遠の家族は
     創価の福井と

   (聖教新聞 2014-02-24)