「みんなでつくる故郷やけんね」

2014年2月28日(金)更新:3
【地域紀行 鳥取砂丘支部 いのち新たに明日へ】
 白みがかった朝の薄明かりのなかに、なめらかな大地の曲線が浮かび上がる。
 シュガーパウターをまぶしたような白雪の砂地。薄氷を張ったオアシスは、青みを増した曙の空を映している。
 「砂の芸術」と親しまれるここ鳥取砂丘の大地は、春夏秋冬、朝々暮々(ちょうちょうぼぼ)、さまざまな表情を作り出す。
 波模様の「風紋(ふうもん)」。砂が屹立(きつりつ)する「砂柱(さちゅう)」。斜面にすだれを垂らしたような「砂簾(されん)」。
 その自然の造形美を、お目当てに、休日や祝日ともなれば、観光客の足あとが砂一面に刻まれる。
 生きた大地の鼓動が聞こえてきそうな雄大な“砂の里”――鳥取市福部町からなる、砂丘支部にお邪魔した。
     ◇◆◇
 良質の砂だからこそ、なせるものがあると、横田文子さん(婦人部副グループ長)がいう。息子と共に「砂丘らっきょう」を栽培している。
 「日が照ってるとウズウズするけぇ、じっとしとれん」と、85歳の今も軽やかに自転車をこいで畑に向かう。
 傾斜地に延々と広がるラッキョウ畑。かつては、腐葉土(ふようど)をぶら下げた天秤棒を担ぎ、深い砂地をはい上がるように上った。
 「夏はえらい(大変)ですがな」。植え付けを行うのは炎天下の夏の盛り。砂の熱は60度まで上がり、昔から“嫁殺し”といわれてきた。
 しかし、どんな苦労も頼もしい夫と、ラッキョウの成長を楽しみに、畑で汗を流してきた。だが、その夫は38歳にして、この世を去った。
 砂に残された夫の足あと。ひざから崩れ落ちた。滴り落ちる波が、白い砂地を黒く染める。呼ぶ声のない畑はあまりにも広く、寂しかった。
 それでも、文子さんは畑に立ち続けた。遺された3人の子どものため。夫の生きた証しを残すため――。
 夫がいれば、と在りし日々を振り返ることもあった。心が折れそうな時、いつもそばには、ぬくもりがあった。
 学会の同志は「絶対に幸せになれるけぇ」と、共に泣いて手をとってくれた。学校から帰れば、子どもが畑作業を助けてくれた。たくさんの優しさが支えてくれた。
 「私は幸せもんです」。砂丘らっきょうを手掛けて65年。今日も畑には母の小さな足あとが刻まれる。
     ◇◆◇
 梨の産地・鳥取。梨農家の安田豊美さんの広大な梨畑には、12品種の梨の木が整然と並んでいる。
 数にして700本。「わしと同い年の木もあるし、まだ子どもの木もある」と、梨を語り出せば止まらない。
 「この人、木を守るのに命懸けですから」と、妻・くに子さん(副白ゆり長)。大雪の日ともなれば、2メートルほどの深雪から一本一本を掘り起こす。全ての雪を除くまでに3カ月かかることもある。
 「おいしい梨には寒暖差が欠かせん」という豊美さん。星がきれいな厳寒の夜ほど、梨を頬張る人たちの姿が浮かび、笑みがこぼれ落ちる。
 これまで夫妻は、高校生や青年農家など、若者の研修を受け入れてきた。寝食を共にしながら、梨の醍醐味、生命の輝きを伝える。中国・河北抄からの1年に及ぶ研修も、「漢字の筆談でなんとか乗り切りましたよ(笑い)」と、くに子さんが振り返る。
 そんな夫妻の一押しが新品種の「新甘泉(しんかんせん)」。みずみずしい芳醇(ほうじゅん)な甘みに、シャリシャリの食感。出荷の時期には注文が殺到するという。
 しかし他の品種に比べ、認知度の低い「新甘泉」。PRをするため、くに子さんは東京など各地へ足を運んでは、宣伝・販売をしてきた。
 「自分たちだけが良くてもだめ。地域で一緒に――だよね?」と夫にほほ笑みかけるくに子さん。二十世紀梨も、100年以上の歴史の中で、先代から受け継がれ、鳥取の名産となった。「梨っちゅうもんは、地域でつくっていく歴史なんだ」と豊美さん。
 梨を守ることは、地域を守り、未来を守ること――故郷の心は連綿(れんめん)と継がれる。


《最高の仲間と》
 大人が変われば、子どもも変わる。その信念で福部町の青少年育成協議会の会長として子どもたちに寄り添う田中秋年さん(副本部長)。
 福部に移り住んだのは昭和54年のことだった。慣れぬ土地での人づきあいに、おっくうになっていた。
 ある朝、通学する子どもたちが元気に呼び掛けてきた。「おいちゃん、おはよう!」――田舎の朝の一コマにすぎない。だが秋年さんにとっては格別の朝だった。「小さな殻に閉じこもっていた自分に気づかせてくれた」
 そんな子どもたちのためならと、地域の役を快く引き受けた。スポーツ少年団の指導員として、毎週、卓球も教えている。日を追うごとにぐんぐんと成長していく姿に驚きと喜びが重なる。
 だが、福部町も少子化という現実は避けられない。
 子どもたちが誇れる地域をつくることを自らの責任と決め、精いっぱい町づくりにも力を入れている。
 「人の痛みが分かる一人一人になってほしい」という思いから、時には口うるさくなったりもする。「やかましいおっちゃんに映っているかもしれない(笑い)」が、未来の宝の健やかな成長を祈り、若い心と真剣に向き合う自分であり続けたいと思う。
 何よりも、福部には、子どもの未来を考え、故郷を思う同じ志の友がいる。
 そんな最高の仲間がいるからこそ、まだまだ命の底から力が湧いてくる。「学会の人だけで喜んどってもいけませんがな。みんなで一緒につくる故郷やけんね」
     ◇◆◇
 冬の風がしみる鳥取砂丘。昭和35年2月23日、この地に立った池田名誉会長(当時・総務)は和歌を詠んだ。

 東洋の
  広宣流布
    断固征(ゆ)け
  日本海
    波は荒くも

 名誉会長が第3代会長に就任したのは、それから70日後のことだった。
 師が世界広布の誓いを刻んだ故郷を誉れとし、寒風に胸を張り進む、砂丘支部の友。
 “風の筆”が、日に日に新たに、砂丘の美をあやなすように、日々、新たなる命の輝きを放ちながら、友は愛しの里に喜びを広げる。

   (聖教新聞 2014-02-28)