わが友に贈る・寸鉄 他

2012年5月8日(火)更新:6
【わが友に贈る】
 人生は 毎日が新しい出発!
 みずみずしい生命で きょうを勝て!
 さあ、これからだ。 (聖教新聞 2012-05-08、以下同)

寸鉄
●ペルー工科大学から会長に名誉博士・教授称号。英知の偉人と世界が賞讃
●「常勝埼玉師弟の日」の制定5周年。対話拡大へ鉄桶の団結で底力示せ!
●信念があれば少人数でも歴史を変えられる―偉人(ガンジー) 青年よ、その一人となれ
●打てば響くような人に―恩師。学会は迅速・誠実で発展。幹部(リーダー)は銘記せよ
●軽装化運動(クールビズ)、各地で開始(スタート)。それぞれが省エネ、節電の意識更に。小事が大事

【感動、感謝のままに描く! 画家として40年 山梨・八ヶ岳で美術館オーナーも 国際コンクール入賞など数々の実績】
●「絵に込めた画家の“感動”が、見る人の心を打つ。若い頃は、技を磨くことばかりに熱心で、心を磨くことはなかった(笑い)」。
●自身の劣等感を克服した一枚の絵がある。
 パリの街並みを見渡す風景画。
●祈っては描き、描いてはまた祈る。信心根本にキャンバスと向き合う中、矢野さんの考えに変化が生じた。
 「それまでは、知識と技術で絵を描くという思いが強かった。でも大事なことは、“生命の息吹”を作品に終結すること。信心して、その大切さに気付くことができたんです」
 ある日、これまで描いたスケッチ画の一枚に目が留まり、筆を執った。パリの街並みを前にした時の、あの感動がよみがえり、作品に込めた。
 思わぬ受賞。これが自信となった。
●会長は“一人立つ精神”の大切さを訴えた。直後に、会長辞任の報――。
 「これが先生との初めての出会いでした。あの時の並々ならぬ気迫と一人一人に注がれる温かいまなざしは、忘れられません。当時を振り返るほどに悔しさが込み上げ、弟子として、必ず師の“正義”を宣揚してみせる、と誓ったんです。」
●会期中、矢野さんは折あるごとに池田名誉会長の言葉を紹介し、世界平和への献身的な行動や、中国との交流の歴史を語った。
●多くの評価の声は有り難かった。だがそれにも増して矢野さんは芸術を通し、日中友好の懸け橋となれた実感をかみしめていた。
 “これこそ私の使命の道なんだ”
●何のための芸術か――。矢野さんの心には、いつも、名誉会長の言葉が脈打つ。
 「真実の世界平和の基盤となるのは、民族や国家、イデオロギーを超えた、人間と人間の交流による相互理解です。そのために必要なのは、芸術、文化の交流ではないだろうか」

【介護】
●市民を介護で困らせない

【ひろば 書道 全国展で文科大臣賞】
●日頃から、勤行・唱題に励み、真剣に練習に取り組んでの今回の受賞だ。

【文化 大震災と文学 社会を蔽(おお)ったスローガン的言説 偽善と欺瞞から覚醒へ】
東日本大震災から一年が過ぎた。
 この一年、大地震と大津波と引きつづく原発事故は、戦争や原爆被災になぞらえて語られた。しかし、その言論のあり方もまた、戦時下と敗戦後とによく似ていた。
 一方に政府と東京電力による「大本営発表」的な言説があれば、他方に自らを被害者の立場に置いての「告発」の言説があった。そしてなにより、郷土愛や日本人の連帯意識に訴える異口同音のスローガン的な言説が世を蔽った。戦中戦後とちがって権力(軍部、占領軍)による統制などどこにもないはずなのに、言論はみな、善意の「自粛=自己検閲」によって漂白され脱色されていた。漂白された言葉に生きた真実は宿らない。
 マスコミの「社会的な」言葉に対して、文学の「私的な」言葉が生きた真実を語るのは、それが偽善や自己欺瞞からもっとも遠い言葉だからだ。
●偽善と欺瞞からは言葉の生命も真実も生まれない。
 文学の倫理は社会的な倫理とは異なる。社会倫理は上げ底の場合が多いが、文学の倫理はその上げ底を踏み抜いて人間の土台に立つのである。
●「生きよ堕ちよ」は文学の倫理である。その安吾はまた、文学の「ふるさと」は「絶対の孤独」なのだ、とも述べていた(『文学のふるさと』)。
●善意の標語は耳に甘いが、社会倫理に反する言葉は耳に苦いかもしれない。しかし、その苦さによって、文学は欺瞞からの覚醒をうながすのだ。たとえば、人殺しは悪だが、ドストエフスキーの『罪と罰』をはじめとして、文学が好んで悪を描くのは、人間というものについての我々の視野を拡大し深化するためにほかならない。
●戦後文学者の重要な一人である武田泰淳によれば、戦争というすさまじい暴力が終わって二年しかたたないというのに、スペクタクルに満ちた壮大な破壊や殺戮の場面に魅かれて、多くの日本人が(泰淳自身も)映画館に足を運んでいたという。「この映画見物者的な状態は何であろうか。」(『滅亡について』)
●映像は、これが真実だ、と目に突きつける。たしかに、映っているのは現実だ。しかし、映像が現実の一角を映せば外側は隠れる。表面を映せば背後は隠れる。映像は一角にすぎないもの、表面にすぎないものを全てだと思い込ませる。そして何より、映像は「意味」を映せない。「意味」を描けるのは言葉だけだ。
 もちろん言葉も嘘をつく。しかし、虚構という「嘘」を通じて、隠されたもの、目に見えないものを描き出すことこそ、文学の言葉の仕事である。そもそも人の心は目に見えない。隠されている。
 圧倒的な光景に接するとき、我々は思わず息をのむ。言葉をのむ。つまり、言葉は現実に対していつでも遅れてしまう。言葉の大規模かつ複雑な組織体である文学は、ことに遅れる。
 しかし、遅れることは文学の弱点ではない。むしろ特権であり、希望である。遅れることによってのみ、人の思考は熟成し変容し、ヴィジョンは深化し拡大するのだから。仏教者だった武田泰淳は、「大きな慧智の出現するための第一の予告が滅亡である」とも書いていた。
 震災と原発事故が文学の言葉を熟成・変容させるのはこれからである。

【命輝く楽園 南アフリカ(6)心の中に聳える巨人、そして富士】
●日本に聳える富士山、南アフリカ最古の町ケープタウンのシンボル、テーブルマウンテン。支柱となる山が、それぞれの心の中で聳えている。