生命倫理サロンの試み

2012年5月13日(日)更新:1
【文化 ルール作りの基礎へ議論を 先端医療を語る場をつくる】
〈生死に深く迫る〉
 自殺して脳死になった人から臓器をもらって移植を受けていいだろうか。よその女性から卵子を買って子どもをつくっていいだろうか。傷んだ臓器や神経の代わりになる「万能細胞」ができたというが本当だろうか――。
 人間の生と死に深く手を下す最先端の医療は、多くの希望とともに、さまざまな懸念ももたらす。私たちは何をどこまでやっていいのだろうか。それを考えるのが生命倫理だが、新しい技術や研究は日々次々と報じられ、ついていくのも大変だ。まして、それらがもたらす問題をじっくり考えて話し合える機会は実に少ない。あそこに行けばいつでも生命倫理の話ができる、そんな場が身近にあるといい。
 そういう思いで私は、民間シンクタンク東京財団で、「生命倫理サロン」を始めた。その時々に話題になった先端医療や研究の専門家を呼んで、聞きたいことを教えてもらいながら、集まった人々と意見を交わす。みな、それぞれの立場はいったん離れて自由に、一個人として語り合う。それが「サロン」と銘打った趣旨である。
 幸い回を重ねるごとにご指示をいただき、この3月末までの1年半に、映画を楽しむ番外編も含めて12回のサロンを催すことができた。
 参加者は、当初マスコミ関係者が中心だったが、いまでは医師、研究者、学生、教師、著述業、一般の方に広がった。年齢も幅があり、まさに老若男女になっている。

〈社会との関わり 何をどこまでやっていいのか〉
 扱ったテーマも、臓器移植、再生医療、生殖補助医療などの先端医療だけでなく、食糧生産のための生命操作、進化生物学からみた少子化、震災後の電力不足が先端医療と医学研究に与える影響、新しい生き物をつくる合成生物学など、多岐にわたる。
 毎回、何をやっていいか悪いかについて答えを決めるのではなく、なぜ悪いと思うのか、いいと思うならどうしてそういうことをやりたいのか、一歩踏み込んで率直な意見を交わすようにしている。
 また、医学・科学について何を知りたいか、何を求めたいか、社会はそこにどう関わればよいのかを、個々の具体例に即して語り合うよう努めてきた。現場の実感をともなった専門知識を受け取れて、それをふまえたいろいろな意見が聞けて、主催者の私がいうのもおのがましいが、参加者に満足してもらえる場になっていると思う。
 いま日本では、政府や国会など国レベルでも、専門の学会や大学などでも、こうした生命倫理の問題を考え話し合える場が、実はほとんどない。そこで民間の公益団体である東京財団が、市民レベルでの議論を喚起する役割を果たそうとしている意味は大きい。
 「継続は力なり」という。生命倫理サロンでもそれを実感する。とにかくまず続けていくことが大事だと考えている。そのうえで今後の課題としては、人の生命や身体の一部をどこまで医療や研究の「材料」として扱っていいのか、ルールを作る基礎になる考え方を練り上げていけるように議論を深めていきたい。

〈我慢する理屈も 人の欲望とどう向き合う〉
 例えば日本では、法律で売買が禁止されているのは臓器と血液だけだが、では人の皮膚や骨や脳(!) や、卵子や受精卵や遺伝子は、普通の物のように売り買いしていいだろうか。人身売買が禁止されるのと同じように、人の尊厳を保護するために、売買禁止の範囲はどこまで広げるべきだろうか。その基準となる根拠は何だろうか。
 さらに突き詰めていえば、生命倫理とは、人の欲望とどう向き合うかという問題である。丈夫な身体で長く生きたい、いくつになっても子どもがほしいといった、人の生命と身体をめぐる欲望は、果てしなく認められていいのだろうか。ここから先はやってはだめという、欲望を抑える一線があってしかるべきだろうか。そうだとしたら、大勢の人が受け入れられる「我慢する理屈」をつくれるだろうか。これから生命倫理サロンで、そういう議論を進められればと思う。
生命倫理サロンでは毎回の案内と議論の概要をホームページ(http://www.tkfd.or.jp/research/project/project.php?id=74)に掲載。
 ぬでしま・じろう 1960年、横浜生まれ。社会学博士。三菱化学生命科学研究所室長などを経て、2007年より現職。著書に『先端医療のルール』(講談社)、『生命の研究はどこまで自由か』(岩波書店)がある。
      (聖教新聞 2012-05-01)