教学 “いよいよの心”で勝利の人生を

2013年12月3日(火)更新:4
【12月度 座談会拝読御書 「乙御前御消息(身軽法重抄)」に学ぶ】
《本抄について》
●本抄は建治元年(1275年)8月、日蓮大聖人が54歳の御時、身延で著されたお手紙です。
 あて名は乙御前となっていますが、内容は乙御前の母に送られたものです。乙御前の母は鎌倉の門下であり、夫と離別し、幼い娘を女手一つで育てながら純粋な信心を貫きました。大聖人の佐渡流罪中には、娘の乙御前を連れて佐渡まで訪れたと伝えられており、大聖人から「日妙聖人」という称号を贈られています。
 本抄御執筆の前年には蒙古襲来(文永の役)があり、さらに本抄御執筆の年の4月には蒙古の使者が再び訪れるなど、世の中は再度の蒙古襲来の恐怖に騒然としていました。そうした中で、乙御前の母は変わらぬ求道の一念を貫き、身延へ大聖人をお訪ねしました。
 本抄では、今一重、強盛な信心に励むよう乙御前の母に促され、また大聖人御自身の実践を通されながら「身軽法重(しんきょうほうじゅう)・死身弘法」の文の通り、法は重く必ず広まると、広宣流布の確信を示されています。


〈拝読御文〉
 いよいよ強盛の御志(おんこころざし)あるべし、冰(こおり)は水より出でたれども水よりもすさ(凄冷)まじ、青き事は藍より出でたれども・かさ(重)ぬれば藍よりも色まさる、同じ法華経にては・をはすれども志をかさぬれば・他人よりも色まさり利生(りしょう)もあるべきなり (御書1221ページ)


《「志」を重ねることで功力が増大》
●ここで心に刻みたいのは、“信心を重ねていく”大切さです。
 信心の実践には、“ここまでやれば終わり”というゴールはありません。どこまでも自身の宿命転換と人間革命のためであり、今いる場所でのたゆみない価値創造の挑戦でもあります。
 「志をかさぬれば」と仰せの通り、自らの信力・行力を奮い起こして、自行化他にわたる実践を重ねた分だけ、御本尊から偉大な仏力・法力を引き出して、妙法の功力を現していくことができるのです。結局、たゆみない信心の持続こそ、幸福境涯を開いていくための肝要となるのです。


《名誉会長の指針から》
●「いよいよ強盛」の信心があれば、「色まさり利生もある」とあるように、心身にますます力と輝きが増し、功徳もますます明瞭に現れてくるのです。いよいよ強盛の信心を重ねることによって、私たちの生命に、金剛不壊の仏界の生命が顕現するからです。(中略)
 信心の志を重ねることによって、無常のわが生命が何ものにも崩れざる常楽我浄の永遠の宝によって荘厳されるのです。その大境涯を確立するために、志を重ねることが重要となるのです。
 「志をかさぬれば」とは、信心の持続です。すなわち、何があってもたゆむことなく、むしろことあるごとに、いよいよ強盛の信心を奮い起こして、わが生命を錬磨していくことです。
 同じ法華経への信心、同じ御本尊への信心でも、いよいよ強盛の信心を奮い起こすことによって、功徳はいやまして大きくなり、境涯はいやまして広く、豊かになる。 (2009年9月号「大白蓮華」、「勝利の経典『御書』に学ぶ」〈乙御前御消息(下)〉)
   ◇ ◆ ◇
 神奈川・鎌倉の地で、法難を受けながら、けなげに信心を貫いていた母と娘――乙御前とその母・日妙聖人に対し、大聖人は次のように仰せになっている。
 「いよいよ強盛の御志あるべし、冰は水より出でたれども水よりもすさまじ、青き事は藍より出でたれども・かさぬれば藍よりも色まさる、同じ法華経にては・をはすれども志をかさぬれば・他人よりも色まさり利生もあるべきなり」 (御書1221ページ) (中略)
 「強盛の信心」があるかないか。功徳も幸福も、一切がそれで決まるのだ、との仰せである。
 「同じ法華経」――同じ御本尊であっても、問題はこちらの「信心」がどうかである。「妙法への信心」に功徳が備わっているのである。「信心」がなければ何の功徳もない。学会は最も強盛な「信心の団体」であるゆえに、心を合わせて進む時、大功徳がある。(中略)
 信心の世界にあっては、祈れば祈った分だけ、動けば動いた分だけ、語れば語った分だけ、「因果の理法」で、すべて自身の福徳となる。自分の境涯を限りなく広げていく。自分自身の「幸福」の軌道を固めていく。(『池田大作全集』第79巻)


〈拝読の参考 強盛な信心で前へ〉
●乙御前の母に、いよいよ強盛な信心に励んでいくよう教えられています。本抄では、この拝読御文の前段でも、大聖人は「古(いにし)への御心ざし申す計りなし・其(それ)よりも今一重強盛に御志あるべし」(御書1220ページ)と仰せになっています。
四条金吾に対しては、「いよいよ強盛の信力をいたし給へ」(同1143ページ)、「いよいよ強盛に大信力をいだし給へ」(同1192ページ)と仰せです。また、窪尼御前にも「いよいよ御信用のまさらせ給う事」(同1478ページ)、上野尼御前にも「いよいよ信心をいたさせ給へ」(同1505ページ)と励まされています。
●こうした門下に大聖人が“いやましての信心”を教えられている事実は、“いよいよ”の姿勢こそ信心の極意であり根幹であることを示しているのです。
   (聖教新聞 2013-12-03)