新生東北 since 2011.3.11〜 いまを刻む・明日を創る

2014年2月25日(火)更新:4
【新生東北 since 2011.3.11〜 いまを刻む 第22回 福光の軌跡――わが心と地域】
〈使命の花を咲かせる!〉
●松永さんは、頭の中を整理できず、心の休まるときがなかった。
 不眠が続き、めまいや吐き気に襲われる。一歩も外に出られない。“自分自身が壊れていく”と思った。
 避難から約半年。「パニック障害」との診断。“もう私はダメなのか……”
 そんな時だった。
 地域の白ゆり長はじめ、婦人部の友が訪ねてくれた。
 さりげない様子で、体調を気遣ってくれる心がありがたかった。
 “池田先生が手作りの、広布の組織に宿る心の温かさは、どこでも同じだ!”
 心に安らぎが芽生え、題目を唱え始めた。
 「願兼於業」(人を救うため、あえて宿業を背負い、願って生まれること)の法理を思う。これまで何度も学び、また人にも語ってきたことが、実感を持って心に迫ってきた。
 祈りが深まるほど、松永さんの心に湧き上がる思い。
 “ここで、もう一度、花を咲かせよう!”
 松永さんは楢葉町でボランティア活動として、地域で花を育ててきた。
 2012年(平成24年)の春。自宅の周辺の草むしりをし、花を植え始めた。震災直後のフェニックスグループの集いで受け取ったカモミールの種も植えた。
 “地域のために”と果たしてきた使命を再び開花させることが、“自身の生き方を取り戻すこと”と思った。
 「一本、また一本と、心で題目を唱えながらでしたね」
 近所の住民から声を掛けられるようになった。
 「いつも表に出てるね」「すごいキレイになったよ」
 一言一言が心の滋養となっていった。
 ある日、シマさんが利用する地域包括支援センター保健師から言われた。
 「介護予防サポーターをやってみたら?」。地域貢献に励む松永さんにぜひ、やってほしいと言うのだ。
 “今の私にできるだろうか”
 悩んだ。祈るなかで、思い出した。
 現在の住宅に入居した時のことだった。
 テレビ番組のインタビューを受け、語った。
 「避難生活で、多くの人に助けていただいた恩を返したいです」
●「一歩でも半歩でもいいんですよね。進めた喜びを味わえた」
 かつて池田名誉会長は語った。
 “「人間性の花」を咲かせながら、あの地にも、この地にも麗しい友情を広げていくのである”


《自らに生きることが誓願を果たす力に》
〈被災地の「光」伝えたい〉
●震災前、鴻巣さんは町の観光産業に尽力していた。06年には観光ボランティア団体「ガイドサークル汐風」を設立し、代表に。町の観光協会の理事にも就任した。
 震災後、「汐風」は語り部ボランティアとして復活した。その活動を通して、鴻巣さんの中で「観光」の意味が変わっていった。
 「観光」は「光を観る」と書く。
 「震災前は豊かな景観や食などが『光』でした。でも、その『光』が奪われて、見えてきたものがある」
 悲しみのどん底から立ち上がる不屈の魂。支え励まし合う温かな心。「光」は被災地で生きる人間の中にある――そう思い至ったとき、迷いがなくなった。
 被災者感情に配慮しながらも、町に脈動する「光」を伝えていく。その信念を胸に、再び全力で走り始めた。
 北は北海道から、南は兵庫県まで各地で講演した。観光協会と連携し、「汐風」は企業や学生、バスツアーなどのガイドを担当。震災体験を語り伝えた人数は、3万人を超えた。

   (聖教新聞 2014-02-25、以下も)


【2011.3.11〜未来へ 明日を創る コミュニティー再生――ある町内会の3年 移転か現地か 話し合い重ね復興めざす】
〈被災後初の訓練〉
●岡田学区全体の会館である岡田会館に移動し、消防隊員から、緊急時の人命救助・けが人搬送の方法の講義を受ける。立ち見がでるほど満員だ。用意していたスリッパも足りないほど。
 被災後、初めての訓練だった。防災のための訓練であると同時に、被災したコミュニティーがどれほど復活しているのかも試されていた。
 「こんなにたくさんの人に参加していただき、復興へ希望と自信を持てました」。南蒲生町内会の二瓶誠治会長の実感だ。

《歴史受け継ぎ「新しい田舎」創出へ》
三者三様の不安〉
●137年の歴史を刻む岡田小学校が3カ月間避難所となり、そして、仮設住宅などへと住民は移動する。この間、困難を共にしながら、町内会コミュニティーは維持された。
 2011年秋、仙台市が「震災復興計画」を策定した。計画には、大きな懸念があった。「危険区域」の「線引き」の問題である。区域内ならば、国の防災集団移転促進事業が活用でき、被災宅地の買い上げや移転先の用地取得などの補償・補助がある。区域外は、対象から外れる。住民の間に、復興の「差」ができてしまう――多くの被災地でも生まれている問題である。
 さらに、問題は複雑化した。仙台市津波被害のシミュレーションを見直し、地区の中心部の鍋沼集落が、危険区域から外れたのだ。行政の「計画」、地図に引かれた「線」に、人が翻弄されてしまった。
 危険区域内住民の集団移転、区域外住民の現地再建、そして、危険区域外だが、津波への恐怖などから、移転を希望する人もいる。「三者三様」の不安と悩みが交錯した。

〈一人一人に希望を〉
●「南蒲生をばらばらにしてはならない」
 声は次第に大きくなった。行政への要望は要望として、自分たちでできることは責任を持って再建に当たろう。
 2012年1月15日、町内会は、「移転再建」「現地再建」にかかわらず、一体となって復興を進めようと決め、「復興部」を作った。また8月には、若手グループ「南蒲生えんの会」を組織した。
 「みんなの意見を聴こう」。寄り合い、話し合いは、一年で、60回を超えた。
●取り組みを重ね、南蒲生町内会は、昨年3月、「南蒲生復興まちづくり基本計画」を策定した。そこには、「『新しい田舎』を目指す」と記された。


《二瓶 透 南蒲生えんの会代表 焦らず、長いスパンで考える》
消防団員だったので、道すがら生存者の捜索をし、避難所となっている岡田小学校で、家族の無事を確認すると、消防団活動を続けました。生存者の救出、不明者の捜索。車や消防団の倉庫の2階などで寝泊まりをしました。
 1カ月ほどたって、消防団活動が落ち着き、自分の家を片付けだし、ボランティアの人たちも来てくださって、なんとなく、希望が見えてきた感じはありました。
 南蒲生は、居久根や海岸沿いの防風林が津波で倒され、流された木がごろごろころがっていて、生活に支障が出ていた。そこで、知り合いのチェーンソー・アートの専門家に頼んだところ、全国から二、三十人が集合。震災の年に、亡くなった方々の追悼のために開いた盆踊りで彫ってもらい、景品で配りました。また、仮設住宅などから、地域に戻ってきた人たちの家の、道路に面したところにも置いてもらいました。今、それは南蒲生の「景観」となっており、地元でも、チェーンソー・アートを始める人たちも出てきています。
 「みんなの居久根」の取り組み、またチェーンソーの取り組みを通して、今まであまり話をしたことがなかった人とも、顔見知りになりました。3年やってきて、一番感じるのは、町内の人と人とのつながりがとても太く強くなったということです。あと、若い人たちが、自分の「町内会」を愛せるようになったことです。焦ってはいません。何十年後という、スパンで復興していけばいい。“子どもたち”、“孫たち”が、楽しく住める「新しい田舎」を作りたいし、いいものを作ったら、必ず継承していってくれると確信しています。