(3)隣国との友好こそ世界平和の基盤 「日中韓の首脳会談」開催を

2014年1月27日(月)更新:7
・『(2)多発する災害と異常気象 復興への協力強化が急務』
http://d.hatena.ne.jp/yoshie-blog/20190822


自治体間の交流で防災力を高め合う〉
 この主張から1世紀以上がたちますが、ARFが「災害救援」の協力強化のために始めた実動演習を、牧口会長の言う「目的を利己主義にのみ置かずして、自己と共に他の生活をも保護し、増進せしめんとする」人道的な観点に立った軍事的競争の質的転換を各国に促す契機にしていくべきだと思うのです。

 「災害救援」の協力を重ねる中で、互いの国に対する不信やわだかまりを解きほぐしながら、「復旧・復興」のプロセスにまで協力体制を継続させることを目指していく。そして、「事前の備え」としてのレジリエンスの強化については、地方自治体の姉妹交流を通じて、顔と顔が向き合う間柄での協力を、それぞれの国で根を下ろしたものにする取り組みを進めていってはどうでしょうか。

 私はその取り組みを軌道に乗せる具体的な枠組みとして、ARFでの実績などをベースに「アジア復興レジリエンス協定」を締結することを提案したい。

 そして、アジア地域での先行モデルを構築するために、日本と中国と韓国が、地方自治体の姉妹交流を機軸にしたレジリエンスの強化に積極的に取り組むことを提唱したいのです。

 現在、日本と中国との間には354、日本と韓国の間には151、中国と韓国の間には149もの姉妹交流が結ばれています。99年からは、日中韓3カ国による「地方政府交流会議」も毎年行われ、交流の促進が図られてきました。

 こうした基盤の上に、各自治体の青年が中心となって、防災や減災を含むレジリエンス強化のための交流を進め、「友好と信頼の絆」を堅固にしていく。そして自治体間の交流という点と点を結び、「行動の連帯」の線を国家の垣根を越えて幾重にも描きながら、「平和的共存」という面を地域全体に浮かび上がらせていく――。

 隣国との友好を誠実に築く努力なくして、世界平和をどれだけ展望しても、画竜点睛を欠くことになってしまう。災害時に相身互いで支援をしてきたような精神こそ、隣国同士の関係の礎に据えるべきです。

 アジアのみならず世界に新たな価値創造の息吹をもたらすこの挑戦に着手すべく、「日中韓の首脳会談」を開催し、昨年の提言で訴えた環境問題での協力も含めて対話を促進することを強く望むものです。

 そして、来年3月に仙台で行われる「第3回国連防災世界会議」を契機に、どのような協力を具体的に進めるかについての協議を本格化させることを、呼び掛けたいと思います。


〈日本を含む125カ国が共同声明に賛同〉
 最後に第三の柱として、核兵器の禁止と廃絶に向けての提案を行いたい。

 先に論じた地震津波などの災害は、事前の備えで被害の軽減は図れても発生自体は止められないものであるのに対し、その災害以上に取り返しのつかない惨劇をもたらす核兵器の脅威は、大多数の国々の明確な政治的意思を結集することができれば、防ぐことのみならず、なくすことさえ可能なものであります。

 昨年8月、シリアで化学兵器が使用され、多くの市民が犠牲になったことに対し、国際社会で強い非難が巻き起こりました。

 このシリアでの事態を受け、国連の安全保障理事会でも、「シリアのいかなる主体も、化学兵器を使用、開発、生産、取得、貯蔵、保持、もしくは移転してはならない」(ピースデポ「核兵器・核実験モニター」第433―4号)と強調し、化学兵器を迅速に廃棄することを求める決議を採択しました。

 化学兵器が現実に使用され、その非人道性があらためて浮き彫りになる中で、“誰であろうと保有も使用も許されない”との原則が安全保障理事会で厳格に示されたわけですが、大量破壊兵器の最たる存在である核兵器について、同じ原則がいまだ適用されずにいるのは、明らかにおかしいと言わざるを得ません。

 国際司法裁判所が96年に示した勧告的意見の中で、「核兵器の破壊力は、空間にも時間にも閉じこめておくことができない。核兵器は、あらゆる文明と地球上の生態系の全体とを破壊する潜在力をもっている」(浦田賢治編著『核不拡散から核廃絶へ』憲法学舎)と警告したように、核兵器がもたらす壊滅的な人道的結果は、化学兵器とは到底比べものにならないからです。

 この壊滅的な人道的結果と正面から向き合い、核兵器の問題を論じることは、安全保障の論理を最優先にする国際政治の下で長らく遠ざけられてきましたが、2010年に開催されたNPT(核拡散防止条約)再検討会議の最終文書で深い懸念が示されて以来、新たな動きが国際社会で生まれ始めています。

 昨年3月、ノルウェーのオスロで行われた国際会議は、70年近くに及ぶ核時代の中で、人道的影響の観点から核兵器の問題を捉え直すことを目的とした初めての会議となりました。

 そこで科学的見地に基づく検証などを行った結果、会議の出席者が共有したのは、「いかなる国家も国際機関も、核爆発によって引き起こされた直接的な人道的非常事態に適切に対処し、被災者を救援しうるとは考えにくい」(ピースデポ「核兵器・核実験モニター」第419―20号)との認識でした。

 こうした中、この検証などを追い風としながら、核軍縮と不拡散をめぐるすべての協議の中心に「核兵器の人道的影響」を据えることを求める国々の輪が徐々に広がっています。

 2012年5月以来、核兵器の人道的影響に関する共同声明の発表が重ねられる中、4回目となった昨年10月の声明の際には、賛同国が“核の傘”の下にある日本などを含めた125カ国にまで拡大しました。

 その背景には、「核兵器がもたらす惨劇を誰にも味わわせてはならない」と訴え続けてきた広島と長崎の被爆者をはじめ、核兵器廃絶を求める人々の力強い支持がありましたが、国連加盟国の3分の2を占める国々が「いかなる場合にも」と一切の例外を認めず、核兵器の使用は壊滅的な人道的結果をもたらし、人類の利益に反することを確認したことは、重要な意義を持つと言えましょう。


〈レイキャビクでの米ソ首脳の対話〉
 歴史を振り返れば、アイスランドのレイキャビクで1986年に行われた米ソ首脳会談で、レーガン大統領とゴルバチョフ書記長が「核兵器の全廃」の合意に向けて胸襟を開いて対話した背景にあったのも、核戦争がもたらす壊滅的結果への恐れでありました。

 ゴルバチョフ氏は、会談の半年前にチェルノブイリで原発事故が起きたことなど、当時を回想して、次のように述べています。

 「チェルノブイリがなかったら、レイキャビクはなかった。そしてレイキャビクがなかったら、核軍縮は進まなかっただろう」

 「一基の原子炉の放射能に対してさえも、十分に対応できなかったのに、ソ連全土や、米国、日本で核爆発がどんどん起きたら、どうなるか。放射能汚染への対応など、とても手に負えない。もう、おしまいである」(吉田文彦『核のアメリカ』岩波書店)と。

 この時、アメリカのSDI(戦略防衛構想)をめぐる意見対立が解消できず、「核兵器の全廃」は合意寸前で幻に終わってしまったものの、「われわれの子や孫をこんな恐ろしい兵器から解き放ちたい」(太田昌克『アトミック・ゴースト』講談社)との思いを抱いていたレーガン大統領との間で、翌87年にはINF(中距離核戦力)全廃条約という米ソ間で初めての核軍縮条約が実現したのです。

 それから四半世紀以上を経た今、人類を取り巻く状況はどう変わったのか。

 それは、昨年6月のベルリンでの演説で「我々は、もはや世界的な絶滅の危機の中にはいないと言えるかもしれない。しかし、核兵器が存在する限り我々は真に安全ではない」(ピースデポ「核兵器・核実験モニター」第427―8号)と述べたアメリカのオバマ大統領の言葉が物語っていると言えましょう。

 偶発的事故や誤った情報に基づく核攻撃、また懸念が高まっている核テロリズムによって、壊滅的な人道的結果がもたらされる可能性は常に横たわっているのであり、核兵器保有する国が増えた分だけ、危険性も増しているからです。

 しかし、冷戦時代と現在を比べて、決定的な違いと動かし難い共通点があることに着目することで、「核兵器のない世界」に向けての新たな地平が浮かび上がってくるのではないかと、私は提起したい。

 まず決定的な違いとは、保有国の間での核攻撃による徹底抗戦という冷戦時代に危惧されたような事態が実際には考えにくくなっていることや、テロをはじめとする今日的な脅威に対応できないとの観点から軍事的な有用性の認識に変化がみられることです。

 つまり、「深刻な対立が存在した」からこそ危険だった時代から、深刻な対立が抜け落ち、「核兵器が存在し続けている」からこそ危険という時代へと移り変わったということです。

 冷戦時代には「抜き差しならない対立」が互いの危機意識を高め、抑止政策によって核兵器が角突き合わせる対峙を招いていたのに対し、現在では「世界に核兵器が存在している状況」が常に不安を生むために、新たに保有を望む国が出てきたり、どの保有国も核兵器を手放せない心理が働いているとは言えまいか。

 2008年に世界経済危機が発生してから、どの国も厳しい財政問題に直面しているにもかかわらず、軍事的な有用性が低くなる一方の核兵器を保持するために全保有国で毎年1000億ドルも費やしている事実を前に、核兵器は“国の威信を高める資産”というよりも、“国の財政を傾ける重荷”になりつつあるとの声も上がっています。

 こうした状況に鑑みて、保有国は核兵器の存在がもたらす脅威を解消するための行動に踏み出すべきではないでしょうか。 (次頁へ続く)

   (聖教新聞 2014-01-27)