全国各部協議会での名誉会長のスピーチ 2010-01-19


御聖訓に「法自(おのずか)ら弘まらず人・法を弘むる故に人法(にんぽう)ともに尊し」(P856)と仰せの通りである。リーダーが、自らの「使命」と「責任」を、どこまで自覚できるのか。広布に戦うことを、喜びとし、誇りとし、福徳と感じて、本気になって、勇猛精進していけるのかどうか。この一点が大事だ。この一点を訴えたい。全人類の広宣流布の人生こそ、最高峰の人生である。信心のリーダーには、苦労も多い。その分、喜びも成長も大きい。その境涯は、どんな富豪や帝王も、かなわない。何百倍、何千倍も上である。皆様こそ、心の王者なのである。


皆さん方も、健康で、長生きをして、私とともに「世界一の創価学会」を断固として築いていこう!断じて勝とう!


アメリカの女子育成運動の先駆者ジュリエット・ゴードン・ローの言葉を皆様に贈りたい。「今日の努力が明日の歴史となります。私たちは、その歴史をつくっているのです」


ゲーテは、ある時、友への手紙にこう綴った。「君がとかく苦労しまいとする事は、悪いことである」苦労は、自分が背負う。後輩は、ほめて伸ばしていく。それが妙法のリーダーだ。誠実にやるのだ。自らが打って出て、人と会い、人と語り、熱い握手を交わし、心を通わせていく。陰で苦労を惜しまぬ友、最前線で真剣に戦う友に、最敬礼して心から感謝していくのだ。
ゲーテは『若きウェルテルの悩み』の中で、こう綴っている。「人間がお互いに苦しめあうほど、いやなことはない」「自分をも身近の者をも傷つけるようなことは、当然悪徳と呼ばるべきですよ」
その通りである。ましてや、信心の世界は、全員が尊敬し合い、幸福になるためにある。幹部の傲慢さや無責任によって、大切な同志が苦しむようなことは、絶対にあってはならない。それは信心の世界ではないからだ。仏法の因果は厳格である。同志をいじめた人間は、必ず諸天善神に叱られる。同志を大事にした分だけ、必ず諸天善神から護られる。先輩幹部は、たとえ自分が犠牲になってでも、後輩が楽しく、伸び伸びと広布に戦える舞台をつくってあげることだ。それが先輩の役目である。


さらにゲーテは『若きウェルテルの悩み』の中で記している。「不機嫌は怠惰と似たものです」
確かに、怠け者の人間にかぎって、何かあるとすぐに不機嫌になるものだ。反対に、常に前進している人は、すがすがしい。快活である。弾むような勢いがある。
ゲーテは、こうも言う。「いったん自分の気持をひきたてて奮起する力をもちさえすれば、仕事もさっさとはかどるし、活動がほんとうの喜びにもなります」
私たちは、自分の気持ちを奮起させる「力」を持っている。絶対勝利の題目がある。


「活動」の中にこそ、「喜び」がある。学会活動には、最高の充実があり、無量の福徳が輝くのである。


ここで戸田先生の指導を紹介したい。私の心には、いつも先生がいる。弱い立場の人、正直な人、苦しんでいる人には、優しく温かく、大慈悲をもって励ましてくださった。慈父のような先生であった。
強い立場の者、傲慢な者、闘魂を忘れた者、庶民を見下すような者には、師子が吼えるがごとく叱咤の声を発せられた。周りも震え上がるほどであった。


戸田先生は、婦人部の友に指導された。「あなたが信心に立ち上がれば、必ず、すべてが軌道に乗ります。信心が強ければ、周囲が、あなたの幸福の力となる。本当に不思議なものだ。法華経には『魔及び魔民有りといえども、皆(み)な仏法を護らん』とさえある。周りの人が信心をしていなくとも、広宣流布のために驚くほど働いてくれるのである。ゆえに自分自身の信心を強くしなさい」
要するに、「自分」である。わが一念で決まる。状況を嘆いたり、人のせいにしても、何も変わらない。自分が変わることだ。自分自身の信心を強くすることだ。その人を、諸天・諸仏も護り支えるのである。仏典に「必ず心の固きに仮って神の守り即ち強し」(P1186)と記されている通りだ。
さらに戸田先生は語っている。「魔が強いからこそ、勝てるのだ。信心が毅然として、そのうえで、魔が強いということは、必ず勝てるという証拠なのである。要は自分自身の決心にかかっている」
魔が競い起こったときこそ、もう一歩も二歩も、大きく成長していくチャンスなのである。大聖人は、大事な破邪顕正の戦いに挑む弟子に言われた。「但偏に思い切るべし」(P1451)と。そして、「『釈迦・多宝・十方の仏よ!来たり集まって、わが身に入りかわり、我を助け給え!』と祈念しなさい」(同)と。
大事なのは「勝つための祈り」だ。真剣勝負の強盛なる祈りだ。今こそ一人一人が、わが生命に、仏菩薩も、梵天・帝釈も「入其身(其の身に入る)」させるのだ。そして仏の力、仏の智慧を思う存分に発揮していくのだ。


戸田先生は言われた。「相手が聞いても聞かなくても、ともに仏縁を結んでいることは、絶対に間違いない。この『下種』にこそ大功徳があるというのが、大聖人の絶対の保証なのである。我々は、最も正しい実践をしている。ありのままに、真実を語っていけばよいのだ」
一人のために祈り、一人のために語る。この「一人」から始まり、やがては千波、万波の幸福と共感の波動を広げていく。それが広宣流布の方程式である。


自分が戦って勝つ。自分が動かずして、「人を使おう」「人を動かそう」という考えは卑怯だ。自分が動いてこそ、周りも動いてくれる。自分が動けば、周りは10倍、20倍の力を発揮してくれるものだ。
19・20世紀のポーランド出身の女性革命家ローザ・ルクセンブルクの言葉を贈りたい。「なすべき闘い、なすべき仕事が、たくさんたくさんあることでしょう。けれども私は絶対にひるみません」
我らにも、「なすべき闘い」がたくさんある。何があっても恐れなく、「師子王の心」を取り出して、勇気、勇気で前進しよう!

(2010-01-23 聖教新聞)


人間は、誰からも厳しく言われなくなると、増上慢になって、駄目になる。堕落してしまう。だからこそ、謙虚に自分を律していかねばならない。


学会活動において、同志の健闘に対しては最大の賞讃を送りたい。「すごいですね!」「頑張りましたね!」と声も惜しまずに、ほめ、讃えていくことだ。そういう温かな心が脈打っている組織は、生き生きと前進できる。どんどん発展していける。


自分自身を知ることから、すべては始まる。


御書には「日月・衆星も己心にあり」(P1473)と仰せである。わが生命に全宇宙が収まっている。この自己の生命を、あますところなく説き明かしているのが妙法である。妙法を持った人こそ、最高の大哲学者なのである。


世をごまかし、うまく立ち回る者について、「人から珍重される人間ほど怪しいものはない。試して見ればすぐ分かる」と、猫が言う。
皆さんも、ありのままの実像で、偉い人物となるのだ。


学歴や地位ではない。その人の本当の偉さを決めるのは、信心だ。行動だ。人格だ。


小説(※「我輩は猫である」)の最後のほうで、猫は言う。「呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする」
他人には分からない悲しみもある。気楽な暮らしも、いつまでも続かない。人生は変化の連続だ。人間は、やがて歳を取る。病気にもなる。そして最後は死んでいく――。それが人生の実相である。だからこそ確固たる哲学を持ち、真に価値ある日々を築いていかねばならない。


夏目漱石は、文筆家を志す青年に宛てた手紙で綴っている。「自分で自分の価値は容易に分るものではない」「世の中は苦にすると何でも苦になる苦にせぬと大概な事は平気で居られる」


青年には無限の力がある。可能性がある。青年よ大胆に進め!何ものも恐れるな!そしてわが勝利の歴史を綴りゆけ!


「機会は何でも避けないで、其儘(そのまま)に自分の力量を試験するのが一番かと存候(ぞんじそうろう)」―漱石
大事なのは挑戦だ。行動だ。私たちは、この気概で壁を破りたい。


嘘や不正義は許さなかった。師匠に仇をなす人間とは戦い抜いた。悪い人間と戦えない。悪を見て見ぬふりをする。そんな意気地なしの弟子であってはならない。


いよいよ、これからが本当の勝負である。今、この時に戦わずして、いつ戦うのか。


信心の世界は「真実の心の世界」である。嘘偽りは最後に敗北する。どこまでも誠実に戦い抜くのだ。皆さんには、広宣流布の血脈を流れ通わせ、師弟の大精神を脈々と伝えていく使命がある。


婦人部や女子部の尊き奮闘に対して、うわべのお世辞ではなく、真心込めて、最大に賞讃していくのだ。


日蓮大聖人は厳然と仰せである。「日蓮末法の初めの五百年に生を日本に受け、如来の予言の通り、三類の強敵による迫害を受け、種々の災難にあって、身命を惜しまずに南無妙法蓮華経と唱えているのは、正師であるか邪師であるか、よくよくお考えいただきたい」(P1341)
法のために大難を受けているのは誰か。三類の強敵と戦っている人は誰なのか。その人こそを、正しき師と仰げ!――
これが仏法の教えである。どんなに偉ぶって見せても、難を避け、虚栄を貪る人間は、真実の仏法者ではない。正しい法を広め、難と戦う人こそが、偉大なのである。正義に生きる我らには、難こそ誉れだ。最高の勲章である。
大難と戦う師匠を護る。それが大仏法をお護りすることに通じていく。


信心とは、役職や立場ではない。師弟に生き抜く人に、無量の功徳と栄光が輝くのだ。そのことを知り、学会を護り、同志を護り抜く人間が、本当の指導者なのである。


「世の中には、四つの恩がある。これを知る者を人倫(人の道に適った人間)と名づけ、知らない者を畜生というのである」(P491)
人の心は恐ろしい。いざとなると、臆病になり、保身に走る。手のひらを返して傲慢になる。卑劣にも、裏切る。そうした者たちが、どれほど多くの民衆を苦しめたか。
恩を知る。恩に報いる。これが人間の道である。いかなる時代になろうとも、たとえ誰一人、立ち上がらなくとも、自分は戦う。師匠が見ていないところでこそ、命がけで歴史を開く。正義を叫び抜く。それが真正の弟子だ。


「大切なのは始めることであり、目を開くことなのだ。」―ヘッセ
まず祈る。そして、勇敢なる一歩を踏み出すことだ。必ずや、勝利の未来は開かれる。我らの信心は「不可能を可能にする」原動力である。


青年の時代だ。青年部、頑張れ!

(2010-01-24 聖教新聞)