大聖人の信徒へのあふれんばかりの真情

【御文】
去年今年のありさまは・いかにか・ならせ給いぬらむと・をぼつかなさに法華経にねんごろに申し候いつれども・いまだ不審(いぶか)しく候いつるに七月二十七日の申の時に阿仏房を見つけて・尼ごせんは・いかに国府入道殿はいかにと・まづ問いて候いつれば・いまだやまず、こう入道殿は同道にて候いつるが・早稲は・すでに・ちかづきぬ、子わなし・いかんがせんとて・帰へられ候いつると・語り候いし時こそ盲目の者の眼のあきたる・死し給える父母の閻魔宮より御をとづれの・夢の内に有るを夢にて悦ぶがごとし(P1314)


【通解】
去年、今年の疫病の流行のありさまを見ては、佐渡の皆さんはどうなられたであろうかと心配であったので、法華経(御本尊)に、ねんごろに祈っていた。しかし、いまだ気がかりであったところに、七月二十七日の申(さる)の時(午後4時頃)、阿仏房が身延の私のもとに来られたのを見て、『尼御前(千日尼)はどうか、国府入道殿はどうか』と、まず尋ねた。阿仏房が『千日尼は病気にもかからず元気である。国府入道は同道して参ったが、早稲(わせ)の刈り入れが近づき、手伝う子どももいないので、やむなく途中から帰られた』と語られるのを聞いた時には、盲目の者の眼が開き、亡くなられた父母が閻魔宮から訪れてきた夢を見て、夢の中で喜んでいるような気持ちであった


【御指導】
「尼御前はどうですか、国府入道殿はどうですか」と、阿仏房の顔を見たとたんに、ご自分から真っ先に、門下の安否を問われる日蓮大聖人。まさに人間性そのもののお振る舞いであられる。信徒へのあふれんばかりの真情が、ドラマのごとく伝わってくる。胸に轟(とどろ)いてくる。
打ち続く疫病に、門下は大丈夫か、あの人は、この人は、どうしているか――大聖人は信徒の現実の生活をつねに心配され、現実の幸福をつねに祈ってくださっていた。(1991-05-25)