『狗犬(くけん)の僧』

《6月4日更新》


【御書と御指導】

■『外面は賢く善なる様子を見せ、内面では貪りと嫉妬の心を抱く』(P.21)、また『実際は僧侶ではないのに僧侶の姿を現し、邪見が燃え盛り、正法を誹謗するであろう』(同)と。
さらに、『飢餓から逃れるために見かけだけ発心出家する人』(P.29)が現れる、との文を引いておられる。
要するに、“食うために出家する者”が現れる、と。そして、こうした“利欲のための出家者”を名づけて「禿人(とくにん)」というのである、と。“髪をそり、外見だけ僧の格好をしている者”のことである。そのニセ出家者が、「正法を護持する人々」を迫害すると涅槃経では説いていると示されている。
形ではなく、正しい振る舞いをしてこそ、尊ぶべき僧宝であり、法に反する悪しき振る舞いの者は悪侶であり、正法の敵であると、御書の多くの御文をとおして、大聖人は断じられている。(1991-04-12)

■『仏法を学び謗法の者を責めないで、いたずらに遊戯雑談(遊びたわむれ、気ままな話をすること)のみに明かし暮らす者は、法師の皮を着た畜生である』(P.1386)
折伏もせず、御本尊への信徒の供養を横領して、酒色(しゅしょく)にふけり、贅沢三昧の「遊戯雑談(ゆげぞうだん)」と、卑しい「成金趣味」に堕しているのが日顕宗である。このような僧侶を、「皮」は法師でも、「身」は畜生だと、大聖人はおっしゃっているのである。(1992-10-24)

■『狗犬の僧(犬のような僧)』(P.1112)――“こっそり供養を貪る僧”のことを、日蓮大聖人はこう仰せである。
「供養」を、法のため、大聖人のため、「広宣流布」のため以外に使う僧侶は、「犬」であり、畜生であると。さらに『これは未来に牛の頭をした牛頭(ごず)という鬼となる』(同)と。人間ではなく卑しい餓鬼道に生まれる、というのである。
また“こっそり”でなくとも、“堂々と”供養を受けながら、それを横領する僧は、どうなるか。
『この僧は未来、馬の頭をした馬頭(めず)という鬼となる』(同)と。
未来に「鬼」となるということは、現在、かたちは「人」でも、生命は「鬼」ということである。
どんなに偉そうに振る舞っても、聖人ぶっても、正法破壊の彼らの本質は、「餓鬼」なのであり、さらには「地獄」の命なのである。(P.1992-11-02)

■「正義」が明白であるにもかかわらず、どうしてその正義を認め、従うことができない人々がいるのか。その理由の一端について、日蓮大聖人はこう仰せである。
『自分の邪義に少しでも合わない経文があると、道理を曲げて、なんとか筋道をとおそうとし、無理に自分の邪義に合わせる。たとえ、あとから経文の内容が「道理である」と心で思っても、あるいは自分の名声や利益のため、あるいは自分に帰依している壇那の手前もあって、誤った教えである権宗を捨てて、正しい教えである実宗(法華経)に入らない』(P.45)と。
これは、権経の人々が、我慢偏執のために、法華経を持(たも)てない姿を描かれた御文である。
都合の悪い経文があると、へ理屈をつけて、自分の邪義に無理やり合わそうとする。
内心では「正しい」と思っても、名利や見栄にひきずられて、勇気をもって「正義」を支持することができない――。
そして、このことを指摘されればされるほど、ますます妬みと憎悪の炎を燃やし、なんとかその思いを晴らそうと悪逆の企てをめぐらすのである。(1991-07-26)

日蓮大聖人は、我欲に狂う末世の僧を、『狗犬の僧尼(犬のような僧)』(P.1381)と仰せである。その姿といえば、『名聞と名利に執着し、表面は袈裟・僧衣をつけているので、形は僧や尼に似ているが、内心には邪見の剣をひっさげて、自分が出入りする壇那のもとへ、他の僧尼を寄せつけまいとして、あらゆるでっちあげの言をもって悪口(あっこう)する』(同)と。
つまり、壇那(信徒)を、自分の“食いぶち”としてしか考えていない。その“食いぶち”を得るために、壇那を確保しようとし、ガツガツと供養を得ようと、貪る。そのためには手段を選ばない。平気で嘘をつく。権力をもつ者へ、でっちあげを広めたりする。人を救う慈悲などまったくない。――こうした「邪見」の僧を、大聖人は、「狗犬の僧」と、厳しく断じられたのである。(1991-10-10)

■デュマの言――『裏切ったという永遠の恥辱はかれらの上に落ちるのだ』!!!!