三類の強敵

《7月15日更新》

●偽善者にとって、恐ろしいのは自分たちの実像が暴かれることです。ゆえに、真実を叫ぶ法華経の行者が“脅威”となる。そこで、もともと、お手のものである「嘘」で法華経の行者を、なきものにしようとする。
まさに「讒言(ざんげん)」と「つくり話」です。しかも、その内容たるや、自分のことを言っているにすぎない。僣聖増上慢は自分の「醜い実像」を、そのまま法華経の行者の姿と“すりかえて”悪口してくる。自分の“影”に向かって悪口を言っているようなものだ。
「僣聖」には、「聖者のふりをする」という意味がある。「聖者」と思われているだけであって、本物ではない。むしろ「実像」は逆。だから、自分は所詮本物ではない、「仮面をかぶって生きている」ということを、心のどこかでは知っている。しかし、増上慢の心が強いため、自分の醜い実像を正面から受け入れ、認めることはどうしてもできない。実像は、いつもは意識されないで抑圧されている。そんななか、真の仏法者である法華経の行者が現れると、太陽にまぶしく照らされたように、いやでも自分の卑小な姿を見せつけられてしまう。それが「増上慢」には耐えられない。そこで、法華経の行者さえいなければいいと考えてしまう。嫉妬です。自分の実像が歪んでいるのに、それを映す明鏡に対して怒っているようなものだ。「醜い姿じゃないか」と鏡を指さしているわけだが、実はそれは自分の姿が映っている。
『「法華経智慧 第三巻」 以下同』

●問題は、僣聖増上慢は、つねに“人権の味方”であり“民衆の味方”という仮面をかぶっていることです。だから、その本性を見破ることは決して用意ではない。

●この三類の強敵の中には初めの俗衆増上慢は忍ぶことができる。次の道門増上慢は、俗衆増上慢よりも強い。第三の僣聖増上慢こそ、もっとも恐ろしい。なぜなら、その正体を見破り難いからである。
今の社会も、いかにも人権や平和のために戦っているようなポーズの人間が多い。それだけに、言葉や、つくられた虚像にまどわされず、本質を見抜く眼が大切になってきます。

●信心も修行もなく、権威だけをふりまわす僧侶は、永遠に大聖人の仏法の世界には必要ないのです。

●良観は、持戒第一とうたわれ、殺生禁断を人々に説いていた。いわば虫も殺さぬはずの人間が、大聖人を殺すように訴えていた張本人だった。(中略)良観の場合、当時、ほとんどの人は「僣聖」の正体を見破れませんでした。今でさえ、良観はどちらかというと尊敬されています。まして鎌倉時代の人たちにとってみれば、“あんなに素晴らしい良観さまのことを悪しざまに罵る日蓮房は許せない”ということになったのでしょう。
「本当は何が正しいのか」という探求ではなくて、単なるイメージに動かされる。現代のマスコミの多くも、哲学がないから、情報はただの商品となる。売れるためには、人々の興味を引けばなんでもよい、という姿勢です。

■いつの時代にも、多くの人にとって侵しがたいタブーがあるものです。
権威ともいってよい。その仮面の陰に隠れるのが「僣聖」なのです。
その「権威」は宗教とは限らない。時と場所によって変わるでしょう。それに伴って、僣聖増上慢の現れ方は変わりますが、方程式は同じです。つねに、その社会の“聖なるもの”を利用して法華経の行者を迫害するのです。──師匠