無明の働きが権教への執着を生み、権教の不十分な教えが無名をさらに

■さて、この無明と法性との観点から、あらためて見れば、大聖人が「諸経は無得道」であると強く破折されているのは、諸経がそれを信奉する人々の無明をいっそう助長するからです。
本来、成仏の因果は、十界互具に基づかなければなりません。しかし、諸経が説くように、九界と仏界が断絶し、九界を否定して仏界を求める生き方のほうが、ある意味で凡夫には“常識的”に映り、理解しやすい面がある。それゆえに権教は衆生の機根に応じた随他意の教えなのです。
本当であれば、この随他意の方便の教えを捨てて、随自意の真実の教えに向かわなければならない。ところが、この権教の教えにとらわれてしまうと、むしろ、正しい成仏の因果が説かれている法華経を否定し、誤った因果に拘泥(こうでい)し、いっそう無明が助長されていくのです。
無明の働きが権教への執着を生み、権教の不十分な教えが無名をさらに助長する。この無明の連鎖ゆえに、諸経は「堕地獄の根源」であると断ぜざるをえないのです。
反対に、「法華経独り成仏の法なり」とは、十界互具の真の成仏の在り方を説く随自意の経典である法華経だけが、人々の仏性を触発する力ある経典にほかならないということです。
それゆえに、末法の一切衆生を救うためには、人々の無明を助長する諸経を破折し、法性を触発する法華経を弘通しなければなりません。しかしそれは同時に、法華経の行者に敵対する第六天の魔王の働きが激化することであり、三類の強敵が必然的に起こらざるをえないのです。ゆえに「三類の強敵来らん事疑い無し」なのです。 (『大白蓮華 2010年3月号』 勝利の経典「御書」に学ぶ)

3月3日更新