御指導・寸鉄

【御指導】
■“非難されているかどうか”が問題なのではない。よきにつけ悪しきにつけ、動けば風は起こる。何も言われないのは、何もしていないからである。問題は、“だれに非難されているか”である。善人は悪人に非難され、悪人は善人に非難される。この本質を、きちっと見ていくことである。
日蓮大聖人は、ご自身のことを、こう言われている。「いまだかつて日蓮ほど法華経のために、三類の強敵に怨まれた者はいない」(P.1438)と。
そして、厳然と宣言しておられる。「愚人にほめられることが第一の恥である」(P.237)と。
牧口先生も、戸田先生も、つねに、この御文を拝しておられた。“大聖人がご照覧くだされば、それでいいのだ”と。大聖人にほめられるかどうか──ここに、信心の唯一にして絶対の基準がある。この一点に心を定めれば、人生は晴れわたる大空のごとく、何の迷いもなくなるはずである。(1993-11-29)
■「讒言(人を陥れるため、事実を曲げ、偽って、その人を悪く言うこと)」はつねに、「正義の人」を陥れる手段である。事実をねじ曲げ、真実に全く反するウソをつくりあげ、それによって攻撃する。(1996-08-29)
■正義は、どこまでも正義である。したがって、だれに、どう言われようと、臆することはない。恥じることはない。いかなる悪言があろうと歯牙にもかけず、法のまま、まっしぐらに進めばよいのである。(1988-06-21)
寸鉄
■大難に立ち向かわれた大聖人の志を継ぐのが学会─恩師。正義の師子吼を (2011-03-09)
■悪しき妬みから良い結果は生まれない─ラッセル。(同)

3月9日更新