重罪は目には見えざれども積りて地獄に墜つる(p.1386)

・斧節『創価大学のこれからを憂う』
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20110726/
>>自分の心配をするのが先だろう。個人情報全開で親にまで迷惑をかけそうな勢いだ。(小野)
●さも味方のように見せかけて人を退転させ、自分もあざ笑い、他の人にも笑わせようとする奇怪な者(p.1540、通解)
●数百巻の文書を作り、中国・日本を往復して無数の謀(はかりごと)をめぐらし、宣旨を添えて人を脅そうとされるよりも、経文が明らかであれば、だれか疑うであろうか(p.1595、通解)
●(※上記御文は)邪義を権力で押しつけようとする高僧への破折であられる、数百巻の偽りの文とは、現代で言えば、謀略や売文のための文書にも通じるかもしれない。ありとあらゆる策略を使い、はては朝廷の権力まで利用して邪義を押しとおそうとする悪侶らに対し、大聖人は、“そのような謀略は無意味である。ただ、正しい経文を出せばよい。そうすれ一切は明白になるではないか”と(御指導、1991-03-27)
●多くの人が聞いているところで人を教訓するよりも、まず自分の身を教訓せよ(1540頁、通解)


・斧節『合理性と教義受容』
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20110727/
●因果を弁えないことは、まるで赤ん坊の様な幼稚さである(p.188、通解)
●涅槃経に云く「法に依つて人に依らざれ」と云云、痛ましいかな悲しいかな末代の学者仏法を習学して還つて仏法を滅す(p.569)
●(※四聖や三仙は)それぞれ「因果」についての独自の説を主張した。しかし結論していえば、それらは皆、仏法の初門も知らない偏見に執着したものである。
どんな大学者であれ、有名人であれ、財力、権力の人であれ、自身の「生命の因果」に通じているとは限らない。にもかかわらず、心おごれるあまり、この根本の重大事について、真剣に、また謙虚に求めていかないとしたら、あまりにも愚かであり、残念なことである。その錯誤は、永遠にわたる生命の軌道に、決定的ともいえる狂いを生じさせていくからだ。
大聖人は、ある邪見の僧に対し、「短い今世における大増上慢によって、未来永劫に迷い苦しむ因を植えつけてはならない」と大慈悲をもって破折されている。(御指導、1988-04-29)

>>当たり前のことである。この当たり前が通らないところに狂信と盲信が根を生やす。かつて教義が変わらなかった宗教は存在しない。仏教はそもそも啓典宗教に非ず。(小野)
●ことを権力をもつ高位の勢力に寄せて日蓮を脅すよりも、正しい証文を出しなさい(p.1259、通解)
●わが弟子等であっても、信心の薄い者は、臨終のとき阿鼻地獄に堕ちる相を現して苦しむであろう。(あらかじめ警告しておくから)そのとき、私(大聖人)を恨んではならない(p.537、通解)
●清澄寺の大衆も、この大恩ある日蓮を信じようとしない人々は、どうして諸天に捨てられないことがあろうか。こう言えば、愚かな者は日蓮は自分のことを呪っていると言うであろう。しかし、後生に無間地獄に墜ちるのがかわいそうなので、あえて厳しく言うのである(p.894、通解)

7月27日更新:4