自由があるからこそ、勤行もできるし活動もできる

【名誉会長 希望の語らい 12】
自由といっても、自分が心の底から「何を」したいと願っているのか。
自由とは、遊ぶことではない。浪費することではない。時間があることではない。休日が多いことではない。気分のまま、気ままに生きるのは「放縦(ほうじゅう)」であって「自由」ではない。
自由とは、いかに、自分自身を高揚させていくか、自分自身の目的に向かっていくか──そのなかにこそ、黄金のような「自由」がちりばめられ、光っているのです。
じつは、自由があるからこそ、勉強できる。自由があるからこそ、学校へも行ける。自由があるからこそ、勤行もできるし、高等部の活動もできるのです。
それを不自由ととらえるところに、人生の大きな錯覚がある。
学校に行くのを、権利ととるか、義務ととるか。自由か、不自由なのか──自分自身の哲学、智慧をもっているかどうかで、すべてが変わってくる。
「受け身」になったら、どんなに自由な環境であっても「不自由」な自分になる。「攻め」の一念になれば、どんなに不自由な環境であっても、「自由」な自分になれる。
病気の人は、学校に行けない。戦争中の国の子どもも、学校に行けない。
行ける人は、行ける自由がわからない。行けることは最大の自由なんです。勘違いしてはいけない。
自由とは「自律」のなかにある。
現実の社会・生活は、何かに縛られている。放縦ではない。無軌道ではない。
太陽も朝出て、夕方には沈む。星も夜だけ輝く。皆、それぞれの役目をもっている。それぞれの軌道にのっとって、運行している。その意味では自由ではない。
朝起きて学校に行ったり、高等部の活動をすることは、今の諸君たちが歩むべき「軌道」なのです。絶対に、すべきだと思う。
それをやらずして本当の自由はない。「力」をつけずして、強くならずして、本当の自由はない。
知力、体力、精神力、生活力、経済力──力があれば「自由」になれる。その最高の力が「精神の境涯」なのです。
自由とは、自分の生きる価値で決まる。自分の心・境涯で決まる。
そこに自由があるのに、自分はそれをわからずに、不自由と思っている場合もあるだろう。
同じ場所にいる人が、大いなる自由を感じている場合もあるだろう。
同じ「自由」を、立派に価値創造に使う人もいれば、気ままに浪費して不価値・反価値にしてしまう人もいる。自由の名を叫びながら、自由を破壊する人もいる。“自由”のなかに、価値と不価値を含んでいる。
結論は、自分自身を支配できた人こそが、本当の自由なのです。 (聖教新聞 2011-09-24)

9月24日更新:2