いちばん「人間らしい」人格をつくれ

【名誉会長 希望の語らい 13】
●優しさとは「心」の問題です。「心」は見えない。また「心」はじつに微妙で、デリケートなものです。
だから「優しさとは何か」と言われて、一口で答えられる人はいないのではないだろうか。それくらい大きな問題です。それは「人間とは何か」という問題と一体なんです。
ある人が言っていたが、「優」しいという字は、人偏に憂うと書く。「人を憂う」──人の悲しさ、苦しさ、さびしさを思いやる心が「優しさ」でしょう。
この字はまた優秀の「優」という字です。「優しい」人、人の心がわかる人が、人として「優秀な人」です。「優れた」人なんです。それが本当の「優等生」です。
優しさとは、人間としていちばん人間らしい生き方であり、人格なのです。

優しさは、悪に対しても強い。仏法では、「怒り」は善にも悪にも通ずると説いている。善のための怒りは必要なことです。自分の感情だけで怒るのは畜生の心です。人間は偉大であるほど、その愛も大きい。愛が大きいから強いのです。優しいのです。
「性格が優しい」イコール「優しい」ではない。不正に対して戦わない、いざという時に力がないのは、「弱い」ことにすぎない。

優しさとは、損・得を度外視した友情です。
人が苦しんでいれば、苦しんでいるほど、その人に愛情を持つ。「立ち上がらせてあげよう」という勇気の心を与える。
人の不幸を、不幸として見つめつつ、苦しみをわかろうとする。分かちあおうとする。そのなかで、自分も成長していく。相手も強くなっていく。
優しさとは、よい意味での“励ましの道場”です。
大切なことは、相手に同情する──あわれむ──ということではなくて、「わかってあげる」ということです。「理解」することです。人間は、自分のことを「わかってくれている人がいる」、それだけで生きる力がわいてくるものです。

人間は、たいていの人が、心の中に「優しさ」をもっている。
しかし、大きくなるにつれて、自分が傷つくのを恐れたりして、優しさを胸の中に埋めたままにしていると、やがて本当に冷たい人間になってしまうのです。
そして、「自分中心」だと、周囲が全部、敵に見えてしまう。そこで、ますます自分を鎧で包む。権威の鎧とか、名声や地位の鎧とか、冷たさの鎧とか、「いばり」の鎧とか──。
それでは「人間性」ではなくて「動物性」になってしまう。

「自分が人間として向上していこう」という姿勢の心は、優秀な心であり、それ自体、優しさに通じる。
ゆえに「21世紀の主役」の諸君は、“強く”“優しい”人間へと、自分自身を鍛え上げてほしいのです。〈『青春対話1』から〉 (聖教新聞 2011-10-01)

10月1日更新:1