宣言!

・斧節『「お前は仲間かそれともアンチか」』
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20111001/
>>@小野 集団が付与してくれるレッテルに依存する人々。自分の奴隷性には死ぬまで気づかない。 RT @氏家氏 大切にすべき人間、生命、そしてそれの住まう環境を無視した排除の論理には僕は、それがどのような清き清しいスローガンを掲げるものだろうとも、賛同することはできない。
>>私は「アンチ」である。全てに対して。組織、社会、国家、因習、道徳、歴史、文化、哲学、宗教、金融など、ありとあらゆる既成概念に対してアンチの立場を貫く。どこにいようともプロテスト(抗議)というスタイルを堅持する。異議申し立てが私の信条だ。(小野)


ここに、師への報恩感謝を込め、仏法者としての私の立場を高らかに宣言するものとする。
我、広布第二幕の本門中の本門、池田門下生なり!
我、師の分身となり、正法厳護の誓願をもってここに御金言を留め置く。
一、一体、今の世で、だれを法華経の行者として、仏の言葉を真実の言葉として証明できるのか。釈尊と堤婆達多とは、身とその影のような関係である。いつの世に生まれても常に一緒である。聖徳太子と、それに敵対した物部守屋とは、蓮華の花と実が同時に成るように、同時代に生まれた。これと同じく、法華経の行者がいれば、必ず三類の怨敵が現れる。三類の怨敵は、すでにいる。法華経の行者は一体、だれであろうか。(御書230ページ、通解)
一、善につけ悪につけ、法華経を捨てることは地獄に堕ちる業となる。(同232ページ、通解)
一、種々の大難が出てきても、私の正義が智者に破られることがない限り、彼らの要求を決して受け入れることはない。(同232ページ、通解)
一、一応、相手の意見に配慮する行き方と、相手の誤りを真っ向から打ち破る行き方ではまったく異なるが、ともにその人を救うためである。(同234ページ、通解)
一、邪智・謗法の者が多い時は、折伏を優先させるべきである。常不軽品に説かれている通りである。(同235ページ、通解)
一、種々に法を説いても、悪法を打ち破る師子吼をなさず、法にそむく悪人を降伏させられないような出家僧は、自らを利益(りやく)することも、衆生を利益することもできない。(同235ページ、通解)
一、天台がいうには、「時にかなうのみである」と。たとえば、秋の終わりに種を蒔いて田畑を耕しても、米の収穫は難しいようなものである。(同236ページ、通解)
一、時と衆生の機根を知らず、摂受と折伏の二門を弁えなければ、どうして生死の苦しみから離れることができようか。(同236ページ、通解)
一、涅槃経には「もし、善比丘が、法を破る者を見て捨て置いて、呵責(厳しく責めること)し、駆遣(追放)し、挙処(罪を挙げて処断すること)しなければ、この人は仏法の中の敵であると知るべきである。もし、よく追放し、厳しく責め、罪を挙げて処断すれば、仏の弟子であり、真の声聞である」等とある。また「仏法を破壊し乱す者は仏法の中の敵である。慈悲がなくていつわって親しくするのは、その人にとって敵である。その悪を糾(ただ)し、退治する人が、法を護る声聞であり、真のわが弟子である。その人のために悪を取り除く者は、その人にとっては親である。悪を厳しく責める者は私の弟子である。悪を追放しようとしない者は、仏法の中の敵である」とある。(同236ページ、通解)
一、そもそも法華経の宝塔品を拝見すると、釈迦・多宝・十方分身の諸仏が集まられたのは、何のためであろうか。「法を久しく存続させるために、ここにやって来た」とある。この三仏が未来に法華経を弘めて、未来の一切の仏子たちに与えようとされた御心のうちを推察すると、わが子が大きな苦しみにあっているのを見る父母よりも、何としてでも救わずにはおかないとの思いが強く盛んであったと思われる。それなのに、法念は、その切実な思いをいたわしいとも思わないで、末法には法華経の門をかたく閉じて、人を入れさせまいとせき止め、判断の狂った子をだまして宝を捨てさせるように、法華経をなげ捨てさせたのである。この法念の心こそ、恥知らずに思える。自身の父母を人が殺そうとしているのに、そのことを父母に教えないでおられようか。悪にそまった子が、酔って狂って父母を殺そうとしているのを、制止しないでおられようか。悪人が寺塔に火を放とうとしているのに、制止しないでおられようか。わが子が重病にかかっているのに、お灸の治療をしないでおられようか。日本の禅と念仏者とを見て制止しない者は、このようなものである。「慈悲がなくて、いつわって親しくするのは、すなわち、その人にとって敵である」と。日蓮は日本国の諸の人にとって、主であり、師であり、父母である。一切の天台宗の人達はかれらの大怨敵である。「かれのために悪を除くのは、すなわち、かれの親である」と。仏道を求める心がない者は、生死の苦悩を離れることはできない。(同236ページ、通解)

10月1日更新:6