堕ちた元委員長 126 矢野絢也が残すべき「本当の懺悔録」(続)

2011年11月25日(金)更新:3
柳原滋雄コラム日記 2011/11/25(Fri) 堕ちた元委員長 126 矢野絢也が残すべき「本当の懺悔録」(続)】
 元政治家・矢野絢也は自身の国会手帳に日々の行動を克明に記録しているという。いまの矢野は、その記録を自身の責任転嫁のための道具として活用しているが、本来、公明党支持者に支えられて長年にわたり政治活動を行ってきた同人が行うべきは、自身の≪転落の軌跡≫を詳細に明らかにし、今後の公明党議員が同じ轍を踏まないで済むような教訓を書き残すことであろう。
 1967(昭和42)年に衆院議員として胸高らかに国会に出て行ったのはよい。それから数年はまじめに仕事をしていたはずだ。だが70年に政教分離が行われ、教団からの監視がいい意味でも悪い意味でも薄れたのをいいことに、自民党政治家を真似た「ミニ利権政治家」の道を歩み始めた。自身の親族を使って北海道の土地を買い漁って支持者に売りつけるなど、バッジをつけた不動産屋としての活動を始めたほか、歯科関係の専門学校を元秘書を使って経営させるなど、政治活動の傍らさまざまな活動を展開し始めた。
 その結果、最終的に「明電工事件」という不明朗な金銭スキャンダル事件を引き起こし、世間から袋叩きにされた。その際、矢野は当初は「知らぬ存ぜぬ」を決め込もうとしたものの、ウソが通らないと知るや前言をひるがえし、「その人に会ったかもしれない」などと言い出す始末で、このときほど、公明党政治家の発言が軽く見られたことはなかった。結局、ウソ八百の言い訳など当然ながら通用せず、矢野の「大ウソ」は世間の物笑いのタネになった。公明党委員長の政治的不正行為が公然と裁かれた「唯一」の時代である。
 矢野絢也はなぜこうした≪転落の道≫を歩んだのか。政治とはいかに高邁な理想をもってしても、信念を貫くことはできない世界なのか。何が足りなかったのか。何を反省すべきなのか。何が繰り返してはいけない教訓だったのか。矢野はそのことを真剣に考え、いまこそ書き遺すべきであろう。それが30年の長きにわたり、手弁当で支えてくれた支持者への真の意味での“恩返し”であり、後世の教訓にできる事柄である。
 だがそれは矢野絢也というひとりの人間の「過去」に向きあう行為そのものだ。反省をもたない人間にとって容易にできることではない。むしろそうした行動と裏腹に、いま同人が躍起になっているのは、反省ではなく、意趣返しそのものである。凡なる人格の哀れな性(さが)というべきであろうか。