信心さえあれば、ことごとく功徳なのだよ─戸田先生

2012年2月17日(金)更新:2
・斧節『二重盲検』
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20120213/
いづれも仏説に証拠分明に道理現前ならんを用ゆべし・論師・訳者・人師等にはよるべからず(御書1293ページ)
●随他意の教えは、文字どおり、衆生の境涯に応じて説いたものです。ゆえに、受け入れられやすい。「易信」であり「易解」です。しかし凡夫の想像も思唯(しゆい)も超えた仏の境涯は「難信」であり「難解」です。だからこそ「信」を強調するのです。
 大聖人は、已今当(過去・現在・未来)の経と法華経との違いについて、伝教大師の法華秀句の次の句を何度も引いておられる。
 「当に知るべし已説(いせつ)の四時の経・今説(こんせつ)の無量義経・当説(とうせつ)の涅槃経は易信易解なることを随他意の故に、此の法華経は最も為(こ)れ難信難解なり随自意の故に」(御書688ページ、991ページ等)
 随自意の経は、凡夫の境涯のワクをはるかにはみ出しているゆえに、「智解(ちげ)」できない。「信解(しんげ)」するしかないのです。
 あたかも、宇宙ロケットを知らない人々に、いくら説明しても理解を絶しているように、生命の宇宙を自在に遊戯(ゆうげ)する妙法という秘術は、凡夫の思議を超えている。だからこそ強い「信」の力によって、妙法の軌道に乗る以外にないのです。
 その「信」は盲目的なものではなく、文証・理証・現証に基づくものです。
 牧口先生は、こう言われている。
 「われわれは、医学の知識がなくても、医者を信用することによって病気を治すのである。そのさい、意識的にせよ、無意識的にせよ、次の三条件に合致する医者を選ぼうとするだろう。
 一、学歴や肩書や専門等を考えるのは文証にあたる。
 二、その医者が多くの病人を現に治しているかどうかは、さらに大事な条件であって、これが現証である。
 三、しかもその治療法は、医学上、合理的なものであることが納得できるならば、もはや何の不安もない。これが道理、すなわち理証である」 (『法華経智慧 第二巻』池田大作
●大変な日々もあるだろう。忍耐強く、時を待つことだ。
 冬は芽が出ない。しかし、根を張っていれば、春になれば、芽が出て、花が咲く。
 信心とは『根を張ること』である。すぐに芽が出なくても、厳然と生きるのだ。たとえ今、思うようにいかなくとも、必ず幸福の大樹となっていく。
 信心の根を張った人には、所願満足の春が必ず来る。
 一人も残らず、健康で幸せになってもらいたい。これが私の祈りである。
 どうか、勇気ある信心を貫いて、ご一家で最高の人生を勝ち開いていただきたい (「名誉会長 折々の指導〈19〉信心の根を張れ」 聖教新聞 2012-01-29)


・『祈り続ければ必ず幸福に!』
http://d.hatena.ne.jp/yoshie-blog/20120317/