「立正安国」と創価の誓い

2012年4月27日(金)更新:1
【随筆 我らの勝利の大道 「立正安国」と創価の誓い(上) 世界は変わる!「勇気」の対話で 2010年6月25日】
●「立正安国論」は、「旅客来りて嘆いて曰く近年より近日に至るまで天変地夭・飢饉疫癘・遍く天下に満ち広く地上に迸(はびこ)る」(御書17ページ)と書き起こされている。
 絶え間なく災害が打ち続き、当時の指導層には、まったく為す術もなかった。
 社会には、苦悶と怨嗟の哀音が満ちていた。明日も知れない。生きる希望も持てない。
 時の為政者たちが帰依していた既存の宗教は「鎮護国家」を標榜してはいた。しかし一体、何を護るというのか。その内実は、権力者たちの保身であり、わが身の安泰に過ぎなかった。
 そこには、国土全体を栄えさせゆく哲学も理念もなければ、民衆に尽くしていこうとする慈愛も責任感もなかったのである。
 それゆえに、あきらめと絶望の闇が、人びとの心を重く暗く覆っていた。その闇を鮮烈に切り裂く、勇気と希望の師子吼こそ「立正安国論」であった。
 安んずるべき「国」とは、あくまで民衆が暮らす社会であり、民衆が生を営む国土である。護るべきは、民衆なのだ。
●「一国のことを、さらに、この動乱の世界を考えた時、私は、この世から一切の不幸と悲惨をなくしたいのです!」

【随筆 我らの勝利の大道 「立正安国」と創価の誓い(下) 私達は祈る この世界を楽土に! 2010年6月26日】
●「汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」(御書31ページ)――この大聖人の仰せ通りに、我らは「立正安国」を大願とするのだ。
 厳しき現実の世界にあって、危険千万な災害や事故、凄惨な紛争や動乱は、あまりにも多い。日本や世界のニュースを見ても、日々、胸を痛め、無事を祈念し、平和を願わずにはいられない。
 「立正安国」の祈りは、行動と一体である。
 深く同苦するゆえに、安閑と、じっとしてなどいられないのだ。