必死の言葉には、立ちはだかる岩をも打ち砕く力がある

2013年1月20日(日)更新:5
【新・人間革命 法旗 三十八】
 スーパーマーケットを視察した山本伸一は、その足で、松山市郊外の土居町にある、初代松山長を務めた羽生直一の家を訪れた。
 羽生は、妻のみさ子と共に、松山広布の中核として活躍し、多くの人材を育んできた。市街で営んでいる家業の呉服店も繁盛し、地域での信頼も厚かった。土居町の自宅は、学会の諸会合の会場として使われており、城を思わせる和風造りの大きな家である。
 伸一は、羽生夫妻の功労を讃えようと、自宅を表敬訪問したのだ。
 羽生直一は、謹厳な性格そのままの、眉の太い、がっしりとした体躯の壮年であった。年齢は五十八歳である。終戦満州(現在の中国東北部)で迎え、命からがら日本に引き揚げ、裸一貫から衣料雑貨店を起こした。
 朝六時から夜十時過ぎまで仕事をした。自転車で衣料品を売りに行くこともあった。働きに働いた。信念と努力――それが、人間のすべてであると信じて生き抜いてきた。
 彼は、常に完璧を求めた。履物がきちんとそろえられていなかったり、玄関や家の中に塵が一つでも落ちていたりすると、家族を頭から怒鳴りつけた。
 だから、妻も三人の子どもたちも、いつも緊張を強いられ、ビクビクしていた。明るい家庭とは言いがたかった。
 一九六二年(昭和三十七年)、妻のみさ子が、姉から仏法の話を聞かされた。入会を希望する妻に、彼は言った。
 「信仰にすがるのは弱い人間の生き方だ。宗教はアヘンだ。お前たちを食べさせているのは俺ではないか! 拝むなら俺を拝め!」
 それでも妻は、信心をしたいと言う。これまで、何も自ら主張したことがなかった彼女が、必死になって頼み込む姿に気圧された。
 人間が発揮し得る最大の説得力は、真剣さである。必死の言葉には、立ちはだかる岩をも打ち砕く力がある。
 羽生は、妻が創価学会のどこに引かれたのか、観察して見ようとの思いもあり、自分も一緒に入会したのである。
   (聖教新聞 2013-01-18)