巨大地震への備え かけがえのない「命」を守る

2013年4月27日(土)更新:3
【災害と文明2 南海トラフ巨大地震対策検討ワーキンググループ主査 河田惠昭】
《巨大地震への備え かけがえのない「命」を守る 国、自治体が連携し経験の共有を》
〈正しく恐れること〉
●例えば、報告書では最大の津波が襲う高知県黒潮町津波高は34.4メートルと想定しています。昨年、それが発表されると、あまりにも巨大な津波の想定に対し、沿岸住民には諦めのような雰囲気が広がったといいます。
 しかし、地震直後に34.4メートルの津波が壁のようになって襲ってくるわけではありません。そのような巨大津波が到来するまでには少なくとも20分、30分の時間がかかります。その時間を使い、最大限どのような津波対策ができるのかを考えてほしいのです。
 現在では最新の研究成果によって、震源地、地震の規模から津波の到達時間、沿岸方向の高さがより正確に算出できつつあります。「正しく恐れる」とは、災害の発生によって起きる事象を理解し、それに備えて行動するということです。

〈生かされなかった教訓〉
●しかし、そこで提案された具体策は担当者の異動や大臣の交代などによって立ち消え、がれき処理の問題はたなざらしにされていたのです。そこに東日本大震災が発生し、2670万トンにも及んだがれきの処理は困難を極めることになりました。
 また、阪神・淡路大震災の教訓も東日本大震災では生かされませんでした。現在、津波被災地で高台移転が検討されるなか、土地所有権の問題が障害になっていますが、同じ問題は阪神・淡路大震災の際も起きていました。未相続のまま複雑な地籍として置かれた土地が、まちの再建を進める際に障害になったのです。
 これらの問題への備えは災害が起こってからでは遅く、災害前から備える必要があります。

〈“平成の親孝行”〉
●住宅の耐震化率は現在、約79%に達し、順調に伸びているように見えますが、これは建て替えと新築が押し上げている数字で、高齢者が住む古い木造住宅の耐震化は進んでいません。
 その原因の一つに、すべての自治体が家全体を工事する場合を助成の対象としている点があります。しかし、家全体を耐震化するには高いコストがかかります。壁一枚から耐震助成が行われるようになれば、数年もすれば家族が大半の時間を過ごす部屋の耐震化も可能です。耐震助成は建物の倒壊防止が目的ではなく、人を救済することが主目的であるとの視点に立って進められるべきです。
 また、そこでは親子の絆が問い直されてもいいのではないでしょうか。一枚一枚の壁の補強を親子で少しずつ負担することで、数年後には、お正月に家族が集う居間が耐震化されているはずです。それが絆であり、平成の親孝行ではないでしょうか。そして、平成の親孝行ということでは、家族が車イスをプレゼントし、隣近所に災害時の応援をお願いすることで、かけがえのない家族の命を救うこともできると私は訴えています。
●例えば各地方自治体に“震災対策課”を設置し、日常的に連携を図るということがあっていいのではないでしょうか。昨年の京都・宇治市での水害では、罹災(りさい)証明の発行業務を東京都から派遣された職員が行うことで、そのノウハウを習得したというケースもありました。
 また、東日本大震災では、昨年10月現在で、地方自治体の職員、約1700人が被災地に派遣され、日々、災害対応業務を学習しています。それは間違いなく、やがて訪れる災害への大きな備えとなります。そして、彼らの経験を皆で共有する努力があらゆる部署で必要です。皆が経験しなければ、災害に備えられない社会であってはならないと思います。

〈実効性のある防災教育〉
●防災学習、避難訓練等、これを実効性あるものにするためには、学習指導要領まで踏み込む必要があると思います。防災に関する学習内容を網羅し、学年ごと、教科ごとに振り分け、学ぶことによって各人の防災力は格段に向上するはずです。
 昨年、防災対策費の流用が国会で問題になりましたが、そうした事態を引き起こさないためにも、最終報告書では、防災・減災対策の効果を試算した専門家としての責任を果たしたいと考えています。
 ワーキンググループで試算された被害想定は金銭に換算できるものだけではありません。金銭に換算できないものであっても、その人にとってかけがえのない大切なものが失われれば、それはその人にとどまらず、社会の損失であり、被害です。
 報告書が示す被害想定の限界はそこにあります。金銭によって換算できるものだけを被害想定にしてしまう社会にしてはいけない、それを私自身も常に戒めています。そして、金銭に換算できない最も大切なもの、それが一人一人の命であり、家族や知人の多くの命にほかなりません。報告書の主眼は、「何としても命を守る」こと、そこから考えうる、防災・減災対策を示すことに尽きるのです。
   (聖教新聞 2013-04-23)