腰を据えて、思いを言葉にする。そこに信頼は生まれる

2013年10月17日(木)更新:4
【名字の言】
 自分が思ったことを、他者も同じように受け取るとは限らない。小さな意識の差が、やがて、いさかいに発展する場合もある。史書吾妻鏡(あずまかがみ)』は、こんな出来事を伝える▼鎌倉・鶴岡若宮(つるがおかわかみや)の社殿(しゃでん)が棟上(むねあ)げし、源頼朝が大工の棟梁へ馬を贈る。馬を引く役を源義経に命じた。だが彼は「折悪(おりあ)しく下手を引く者がいない」と、自分と共に役を務めるのに適した者がいないと言った(五味文彦本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡吉川弘文館)。頼朝は「役目が卑しいものだと思い、あれこれと言って渋っているのだろう」と激怒する▼“自分は一般の御家人とは違う”と、特別扱いを期待する義経。一方、頼朝には、同じ源氏でも主(あるじ)は自分であり、主従のけじめをつけるべきではないかとの思いがあった。2人のすれ違いは対立へ発展する。事を大きくした原因の一つは、対話の欠如にあろう▼プラトンは「言論嫌いと人間嫌いとは同じような仕方で生じてくる」(岩田靖夫訳)と。真情を率直に語り合う言葉の不足は、理解の芽を摘み、猜疑心を育て、人間不信へとつながる▼メールはもちろん、顔を合わせても、機械的な「連絡」に終始すれば、心にずれが生じてこよう。腰を据えて、思いを言葉にする。そこに信頼は生まれる。(由)
   (聖教新聞 2013-10-17)