所感


其の書にくはしく申したれども愚人は知り難し、所詮現証を引いて申すべし(P371)

無明の闇が相当深く、慢心は山の如く高い。そして勝他の念は驚くほど強い。現証が出ないと意識は変わらないな。


一、
かなしきかな今度此の経を信ぜざる人人、抑(そもそも)人界に生を受くるもの誰か無常を免(まぬが)れん、さあらんに取つては何ぞ後世のつとめをいたさざらんや、つらつら世間の体を観ずれば人皆口には此の経を信じ手には経巻をにぎるといへども経の心にそむく間悪道を免れ難し、たとえば人に皆五臓あり一臓も損ずれば其の臓より病出て来て余の臓を破り終(つい)に命を失うが如し、ここを以て伝教大師は「法華経を讃すといえども還つて法華の心を死(ころ)す」等云云、文の心は法華経を持ち読み奉り讃むれども法華の心に背きぬれば還つて釈尊十方の諸仏を殺すに成りぬと申す意なり、教に世間の悪業衆罪は須弥(しゅみ)の如くなれども此の経にあひ奉りぬれば諸罪は霜露(そうろ)の如くに法華経の日輪に値い奉りて消ゆべし、然れども此の経の十四謗法の中に一も二も犯しぬれば其の罪消えがたし、所以(ゆえん)は何(いか)ん一大三千界のあらゆる有情を殺したりとも争(いかで)か一仏を殺す罪に及ばんや、法華の心に背きぬれば十方の仏の命を失ふ罪なり、此のをきてに背くを謗法の者とは申すなり、地獄おそるべし炎を以て家とす、餓鬼悲むべし飢渇にうへて子を食ふ、修羅は闘諍なり畜生は残害とて互に殺しあふ、紅蓮地獄と申すはくれなゐのはちすとよむ、其の故は余りに寒につめられてこごむ間せなかわれて肉の出でたるが紅の蓮に似たるなり、況(いわん)や大紅蓮をや、かかる悪所にゆけば王位将軍も物ならず獄卒の呵責にあへる姿は猿をまはすに異ならず、此の時は争(いかで)か名聞名利我慢偏執(がまんへんしゅう)有(う)るべきや。(P1439)


一、
求めて師とすべし一眼の亀の浮木に値うなるべし(P230)

一生空しく過して万歳悔ゆること勿(なか)れ、恐恐謹言。(P970)


一、
法華経の行者を悪口し及び杖を以て打ちゃくせるもの其の後に懺悔せりといえども罪いまだ滅せずして千劫阿鼻地獄に堕ちたりと見えぬ、懺悔せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり況や懺悔せざらん謗法にをいては阿鼻地獄を出ずる期かたかるべし、故に法華経第二に云く「経を読じゅし書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉(きょうせんぞうしつ)して結恨(けっこん)を懐(いだ)かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更(また)生れん、是くの如く展転(てんでん)して無数劫に至らん」等と云云。(中略)謗とは背(そむく)なり等と云云、法に背くが謗法にてはあるか天親の仏性論に云く若し憎(にくむ)は背くなり等と云云(P448)

日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し(P1337)

不信の心をば師となすべからず信心の心を師匠とすべし(P842)


退転してはいけない。他人や環境を憎み、責任転嫁をする姿が情けない。そもそも、これまでの戦うエネルギーの源が、「師弟」ではなく「勝他の念」だった自身を顧みよ。同志を恨むのではなく、澱み切った自分と戦え。境涯を革命せよ。「人間らしさ」を取り出(いだ)せ。戦う相手はどこまでも無明であり、己心の魔だ。境涯が開けば嘘のように世界は変わる。
「人生は境涯の物語」――これが真実だ。

そうそう、見栄を張るのは30歳までだよ。

2003年の「SGI提言」の熟読をお勧めしたい。


――以上。