守護国家論

手に法華経一部八巻を執(と)らざれども是の経を信ずる人は昼夜十二時の持経者なり口に読経の声を出さざれども法華経を信ずる者は日日時時念念に一切経を読む者なり。
仏の入滅は既に二千余年を経たり然りといえども法華経を信ずる者の許に仏の音声を留めて時時・刻刻・念念に我死せざる由を聞かしむ心に一念三千を観ぜざれどもあまねく十方法界を照す者なり此等の徳は偏に法華経を行ずる者に備わるなり、是の故に法華経を信ずる者は設い臨終の時・心に仏を念ぜず口に経をじゅせず道場に入らざれども心無くして法界を照し音無くして一切経をじゅし巻軸(かんじく)を取らずして法華経八巻をにぎる徳之有り(P55)


法華経より外の四十余年の諸教には十界互具無し十界互具を説かざれば内心の法界を知らず内心の仏界を知らざれば外の諸仏も顕われず故に四十余年の権行の者は仏を見ず設い仏を見るといえども他仏を見るなり、二乗は自仏を見ざるが故に成仏無し爾前の菩薩も亦自身の十界互具を見ざれば二乗界の成仏を見ず故に衆生無辺誓願度の願も満足せず故に菩薩も仏を見ず凡夫も亦十界互具を知らざるが故に自身の仏界も顕われず、故に阿弥陀如来の来迎(らいごう)も無く諸仏如来の加護も無したとえば盲人の自身の影を見ざるが如し。(P67)


設い先に解心無くとも此の法華経を聞いて謗ぜざるは大善の所生なり、夫れ三悪の生を受くること大地微塵より多く人間の生を受くるは爪上の土より少し、乃至四十余年の諸教に値うことは大地微塵よりも多く法華涅槃に値うことは爪上の土より少し上に挙ぐる所の涅槃経の三十三の文を見るに設い一字一句なりといえども此の経を信ずる者は宿縁多幸なり。(P70)