御書と青年 1 師弟誓願の祈り

いよいよ青年が、壮大な「世界広宣流布」の一切を担い立つ時が到来しました。だからこそ、私は御書を根幹に、若き大切な君たちへ、「青春勝利の指針」を語っておきたいのです。


君たちには、最高無上の青春の舞台が広がっている。喜び勇んで踊り出なければ、自分が損をする。日蓮大聖人は「始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華教は歓喜の中の大歓喜なり」(P788)と仰せになられました。自分が思っている以上に、わが生命は尊い。無量の宝を秘めている。


「持たる法だに第一ならば持つ人随って第一なるべし」(P465)人間の価値は、何で決まるのか。どういう哲学を持って行動しているかで決まる。


勉強していなかったら、戸田先生の前には行けない。自分の信心も深まらないし、大勢の同志を励ますこともできない。だから真剣でした。


私たちには、御書がある。これほど強いことはない。「法華経に勝る兵法なし」です。一頁でも一節でもいい。大聖人の御精神を求め抜いていくのです。
戸田先生はよく、「行き詰まった時こそ、御書を開け」「疲れた時こそ、御文を心肝に染めよ」と語られた。御書を開けば、「希望」も「勇気」も「智慧」も、いくらでも湧いてくる。絶対の確信が生まれる。決して尽きない「泉」のようなものです。


いかなる大学者も、大富豪も、「生老病死」という人生の根本問題だけは、いかんとも解決しがたい。「一切衆生の異の苦を宇くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」(P758)と。そして、あらゆる苦悩を必ず勝ち越えていける解答を、御書に留めてくださったのです。


先生の事業が一番、大変な時も、「生命力が弱っていては戦はできないぞ」と厳しく叱咤されて、弟子のために導師をして、祈ってくださった。「御義口伝」には「師子吼」の意義について「師弟共に唱うる所の音声なり」(P748)とあります。先生と唱える題目は、まさに宇宙をも揺さぶるような「師子吼」でした。勝ち戦への轟(とどろ)きです。


何を、どう、祈っているのか。祈りにその人の一念が如実に現れる。私たちの祈りは、いわば、大宇宙と人間生命の小宇宙との深遠(じんのん)なる交流の儀式です。南無妙法蓮華教は、宇宙と生命を貫く根本の大法則だからです。


真の祈りは、これ以上ないという「努力」と直結しているのです。


「諸法実相抄」では、「皆地湧の菩薩の出現に非ずんば唱えがたき題目なり」(P1360)と言われています。題目を唱えられるということ、それ自体が、いかに深い宿縁であるか。
大聖人は「日蓮と同意ならば地湧の菩薩たらんか」(同)とも仰せです。広宣流布に生き、題目を唱えゆく青年は、皆、最も尊極な地湧の菩薩なのです。


「本当の決意を込めた題目をあげよ!」――戸田先生


友の幸福を願い、広宣流布を願って題目をあげていく。学会活動をし、折伏に挑戦していく。それ自体が、立派な「誓願の祈り」であり、「誓願の実践」なのです。地湧の菩薩は、法華経の湧出品で大地の底から現れ、末法における広宣流布誓願した。私たちは、その誓願のままに創価学会員として生まれ、戦っているのです。


私たちは、誓願の祈りで、深く強く結ばれている。創価学会は「我、地湧の菩薩なり」との自覚で立ち上がった仏勅の団体です。どれほど尊いか。この「地湧の菩薩」の覚悟がなければ、三類の強敵をはね返して、悪世末法広宣流布を進めることはできません。


戸田先生は「広宣流布へ戦う私たちは、皆、虚空会の儀式に連なっていたんだよ」と言われました。


私たちは皆、「自分で誓い願って」、地湧の菩薩として生まれてきた。そう決めて拝読すれば、御書の内容も何重にも深く生命に響きます。法華経も同じです。「八万四千の法蔵は我身一人の日記文書(もんじょ)なり」(P563)とある通りだ。御書を一切、自分の生命のことを説き明かした経典と拝しているから、学会は強いのです。負けないのです。


地湧の菩薩は、最も大変な時に、最も大変な場所に勇み立って出現する。みんなも、そうなんだよ。今、直面している困難は、信心の眼で見れば、自ら願った使命です。そう確信して前進することが、「誓願の祈り」の証です。


勇気を奮い起こして、自他共の幸福を祈ることだ。そこに深い慈悲がある。自分だけでない。人の幸福を祈る中で、自分の悩みを悠々と見下ろせる境涯が開かれていくのです。自らの悩みを抱えながら、それに押しつぶされない。「難来るを以て安楽」(P705)と、広宣流布のため真剣に祈り、勇敢に学会活動に打って出る。広布の祈りは、仏・菩薩の祈りです。大きな悩みを引き受け、大きく祈った分だけ、大きな境涯を開くことができる。気がついたら、小さな悩みは全部、包まれ、乗り越えられている。ここに「煩悩即菩提」の極理があります。


自分の人生の課題を祈ることと、人々の幸福を願う広宣流布への祈りとは、一体です。共に前進の力です。自分の勝利が、広宣流布の実証になる。広宣流布の大発展を強盛に祈っている人は、どんなことにも負けない自分自身になる。王者のような境涯を必ず開けるのです。


地湧の菩薩は、いかなる時も「其の心に畏(おそ)る所無し」である。常に「随喜の心」を発し、舞を舞うが如く戦う。師匠のためにと、一念に億劫の辛労を尽くして勇猛精進するのです。地湧の使命に目覚めることは、汝自身の生命の本源を知ることだ。なぜ生まれてきたのか。なぜ生きゆくのか。その究極の意義を知ることです。自身の永遠の使命に目覚める以上の歓喜はない。これほどの充実はない。これに勝る誇りはありません。
大聖人は、流罪佐渡の地で、愛弟子と共に「喜悦はかりなし」(P1360)と宣言されました。地湧の生命を現すことは、人間の無窮(むきゅう)の内発性を開花させることです。これは人類の意識を根底から変革し、至上の高みへ飛翔させ、結合させゆく平和の大偉業なのです。


地湧の菩薩とは、外見は現実の中で苦闘する菩薩です。しかし、内証は仏と同じ境地に立っている。同じように、外見は市井の平凡な一青年であっても、偉大な仏の智慧と慈悲と勇気を必ず現すことができる。この「地湧の底力」を出し切っていくのが、わが創価の青年です。これ以上の「庶民の英雄」「人間の王者」は他にはいません。だから君たちは絶対に負けてはいけない。


広宣流布誓願とは、そもそもが「師弟の誓願」です。師弟の一念が合致して、祈り切っていくところに、計り知れない力が出る。「祈り」は即「行動」だ。ゆえに広布と人生の勝利のため、一つ一つ祈り、真剣勝負で行動していくのです。


今は歯を食いしばって、人の何倍も苦労しながら、堂々と信心即生活、仏法即社会の実証を示していくのです。青年部は声高らかに題目を唱え、思う存分に走り回ることだ。そして、正義を叫んで勝ちなさい。


(御書と青年 1 師弟誓願の祈り 2010-01-25 聖教新聞)