「提婆達多も、釈尊への嫉妬から、身を滅ぼした。」

“正しき道”を進んでいる人は妬まれる。日蓮大聖人もそうであられた。日興上人もそうであられた。創価学会の歩みも同様である。そのほか歴史上の実例は無数にある。
嫉妬はいわば人間の病である。病気のようなものである。

シェークスピアは、嫉妬の悲劇『オセロ』の中で、ジェラシー(嫉妬)のことを、「緑色の目をした怪物」と呼んだ。この怪物に魂を奪われると、病のごとく、自分で自分をどうしようもなくなる。

ギリシャの哲人アンティステネスは、「嫉妬は錆のごとし。錆が鉄をむしばむがごとく、嫉妬は汝自身をむしばむ」と。
そのとおりであろう。提婆達多も、釈尊への嫉妬から、身を滅ぼした。これは“男の焼きもち”である。また女性の嫉妬は、悪鬼としての鬼子母神十羅刹女の生命に通じるといえるかもしれない。
現代の広布の前進においても、自身の嫉妬心に信心をむしばまれ、みずから堕ちていった人間がいたことは、ご承知のとおりである。

大聖人は、次のように明確に仰せである。
「彼の阿闍梨等は・自科を顧みざる者にして嫉妬するの間自眼を回転して大山を眩(めぐ)ると観るか」(P1453)

――かの阿闍梨(大聖人を誹謗して、本末転倒の法門を唱えていた悪僧・尾張阿闍梨)らは、自分の誤りを顧みない者であり、(正法の行者であられる大聖人を)嫉妬するあまり、自分の目が回転しているのを大山が回っていると見ているようなものである―。

たしかに、自分の目が回っていれば、見るものすべてが回って見えるだろう。しかも自分では、その転倒に全く気づかない。こうなっては、もう正常な話し合いも不可能である。
ぐるぐる目が回転している人に、どう見えようと、大山は大山である。どっしりとして不動であり、不変である。
富士のごとき、また浅間のごとき、大いなる山も、目が回っている人間には、ぐらついて見える。動かざる大地も、雲を浮かべた大空も、回って見えるのである。
ゆえに、そうした人間の言うことを信ずる方が愚かである。決してだまされてはならないということを、大聖人は教えてくださっていると拝される。

嫉妬の人間の悪口はつねに自分自身の“悪”と“動揺”を語っているにすぎない。
妬み深い人間は、つねに動揺している。他の人の動向に一喜一憂しながら、いつも胸中で、あれこれ策をめぐらしている。本当の自身がなく、不安定に、ぐらついている。心の休まる暇がない。その意味で、彼らは不幸である。
そのうえ、他人の幸福や成功を見るたびに、黒い炎に胸をこがして苦しむ。だから、彼らは二重に不幸である。
さらに、目が回って、物事の正しい姿が映らない。ゆえに、必ず道を誤る。頭に血がのぼって、常識も礼儀も人間性も、どこかに消し飛んでしまう。自分を守ってくれている味方をも敵にし、本当の敵を見失う。
その結果、自分で自分を傷つけ、自滅していく。また、時代と民衆の進歩にとり残される。ゆえに、ますますあせる。こうした意味で、彼らは三重に不幸である。
そして、彼らのまわりからは、正しき人間は遠ざかる。妬みの人、野心の人、策謀の人が集まってくる。悪人のみに囲まれて、本当の友情も知らない。心通う同志愛のすばらしさも味わえない。この意味でも、さらに彼らは不幸である。


『第一回長野県総会 1990-08-12』



(2月4日更新)