ブログ「創価王道」〈6月5日〉を斬る

〈6月5日更新〉

創価王道の今日付けの「覚え書き」だが、言葉は巧みに繕っているが、明らかに大聖人様のお心に反する我見であり、邪見であり、邪流だ!
《該当記事》
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20100605/p1/

『法に依(よ)って人に依ってはいけない』(P.219)――わかりやすく言うなら、「法に依って、小野に依ってはいけない」だ。

本文中にある「梵天勧じょうから初転法輪」のリンク先は、驚くことに他宗教のホームページである。この時点で既に話にならない(笑)。

小野は、『日蓮が否定したのは「智慧の教条化」であった』、『日蓮が教典を金言としたのは鎌倉時代の思想的混乱の中で、「対話の基準」とするべく依拠(いきょ)したものであって、教条とは無縁なことが明白だ』と勝手極まりないことを言っているが、先生の御指導には厳然とこうある。

【御指導】
■牧口先生は「創価教育学大系」で、この哲学は「立憲政体の本義」にも通じると論じておられる。専制政治の時代には、「法」よりも「人」によって治められる。正邪や善悪よりも、権力者の勝手放題の感情や意志が、まかり通ってしまう。社会が進歩するにしたがって、憲法という「法」による政治が確立していく。
同じように宗教でも、永遠に変わらない宇宙根本の「大法」が生きる規範となっていく。これが牧口先生の歴史観であった。縁に触れて変化する人の「心」を基準にするのは危ない。仏法も社会も、あくまで「法」を根本として進むべきである。(2000-05-24)


『経文によって説明できない者は、すべて、邪(よこしま)であり、偽りである。かの外道と同じである』(御書P.148)
小野は、経文を引いていないばかりか、他宗の教えを借りてまで己義を構えている。――この転倒ぶりが滑稽きわまりない(笑)。
小野の言葉を借りて言うならば、“人間を言葉に従属させようとするのは”まぎれもない小野の方だ!
『もし仏の説くところ(経文)に従わない者がいれば、よく知っておきなさい、この人は魔の一類である』(御書P.152)
“文証に基づかない過ち”を犯す小野こそが『天魔の部類・外道の弟子』(御書P.153)であると断言する!


【御指導】
■「正義」が明白であるにもかかわらず、どうしてその正義を認め、従うことができない人々がいるのか。その理由の一端について、日蓮大聖人はこう仰せである。
『自分の邪義に少しでも合わない経文があると、道理を曲げて、なんとか筋道をとおそうとし、無理に自分の邪義に合わせる。たとえ、あとから経文の内容が「道理である」と心で思っても、あるいは自分の名声や利益のため、あるいは自分に帰依している壇那の手前もあって、誤った教えである権宗を捨てて、正しい教えである実宗(法華経)に入らない』(P.45)と。
これは、権経の人々が、我慢偏執のために、法華経を持(たも)てない姿を描かれた御文である。
都合の悪い経文があると、へ理屈をつけて、自分の邪義に無理やり合わそうとする。
内心では「正しい」と思っても、名利や見栄にひきずられて、勇気をもって「正義」を支持することができない――。
そして、このことを指摘されればされるほど、ますます妬みと憎悪の炎を燃やし、なんとかその思いを晴らそうと悪逆の企てをめぐらすのである。(1991-07-26)


同志の皆様方、小野には絶対に親しみ近いてはいけません。