“仏法はどこまでも仏と魔との「戦い」であり「勝負」である”

《6月14日更新:2》

【御書と御指導】
■『法華経の敵に供養すれば、どんな大慈大悲の菩薩であっても、必ず無間地獄に堕ちる。』(P.1133)
仏法はどこまでも仏と魔との「戦い」であり「勝負」である。感情論ではない。(1992-11-02)

■(※修羅は)「だれもが成仏できる」と説く法華経を信じることができない。他人よりも自分が上でないと、気がすまない。いな、妙法そのものよりも、自分が上であるかのように慢心してしまう。それが広宣流布を阻む悪人たちの本質である。まして、「自他共の幸福のために真剣に戦う」法華経の行者の心など、わかるはずがない。(1999-05-01)

■「日蓮大聖人のご弘通」に「いささかも違わない」ことが、根本中の根本なのである。(中略)ここに大聖人門下の根源がある。今や、このご遺戒の実践者は創価学会しかない。
日顕宗では、「大聖人に相違しない」ことではなく、「日顕宗に相違しない」ことを教えている。根本が狂っている。「いささかも」どころか、完全に違背している。(1992-10-24)

■仏法においては「法」が根本であり、広布を妨げ「法」に背いた罪は、あまりにも重く、深い。
日蓮大聖人は、こう戒めておられる。
法華経の心に背けば、十方の仏を殺す罪である。この定めに背くのを謗法の者という。地獄は恐れるべきである。(身をこがす)炎を住処としている』(P.1439)と。
謙虚に、また地道に自己を磨き、境涯を高めていくのが“一生成仏への道”である。反対に、最高の法を持ちながら、人を押しのけ、人をおとしいれるような、策を根本とした生き方は、“永遠の苦悩への道”である。(1989-01-21)

■『仏語を信受』(P.753)と経文にあるように、私どもは「仏」のお言葉、御本仏日蓮大聖人の御書を信じている。どこまでも「大聖人根本」であって、途中の人師、論師が、明らかに大聖人に背く言動を始めたら、絶対に従うわけにはいかない。(1991-12-14)

■『死をおそれて、言うべきことを言わないのは、勇士ではない』(P.1159)
脅しに屈伏して口を閉ざすようでは、信仰者とはいえない。言うべきことを、言うべきときに敢然と言いきっていく。そうでなければ、心は地獄に縛られ、魂の敗北となってしまう。(中略)これが大聖人のお心であられた(中略)そして、これこそ真実の信仰者の生き方である(1991-01-06)

■『(われわれ衆生は)ある時は人に生まれて、諸々の国王や大臣、公卿、殿上人(貴族)など高位・高官の身となって、これほどの楽しみはほかにないと思い、少しばかりの果報を得て十分であると思い、喜び合っている。しかし仏は、これを、夢の中の繁栄であり、幻の楽しみである、ただ法華経をたもって、すみやかに仏になるべきである、と説かれたのである』(P.386)
権力者であろうが、大臣であろうが、議員や有名人であろうが、どんなに威張ってみても、仏法の眼から見れば「夢の中の栄え」「幻の楽しみ」にすぎない。はかない泡のような栄華を求める人生。また、それをうらやんで、心を悩ます人生。短い一生を、そうした幻を追って過ごすのでは、あまりにもむなしい。ゆえに私たちは、表面的な肩書や立場などに惑わされない。実像を見ぬいていく。“一人の人間として偉いかどうか”――この一点を、きちっと見ていく。
それでは、人間として、最も尊貴な人生とは、何か――。
大聖人は、「仏」に成ることこそが、永遠の幸福であり、最高の人生と仰せである。「妙法の当体」たる自分自身を輝かせていく生活である。華やかではなくとも、まじめに信心に励んだ人、真剣に広宣流布に励んだ人、不滅の大法とともに生きぬいた人こそが、真の「勝利者」であり、「勝利王」なのである。
広宣流布は三世永遠の偉業である。「この道」に生きぬいた人こそ、三世永遠の楽しみを満喫していける――これが大聖人のお心である。その意味で、学会員こそ世界第一の「英雄」であり、人間の「王者」である、とあらためて断言しておきたい(1993-03-24)