必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退く

《6月22日更新・2》

姑息にも「抜き書き」、「RT」、その他卑怯な策を駆使し保身に狂う“臆病”で“二枚舌”の偽善者よ!
欺瞞の輩の言動など『風の前の塵』だ!『一善にかつことなし』だ!

●『そねみ候人のつくり事』(P.1157)――嫉妬に狂ったデマ屋は暴かれ笑い物(寸鉄)

【御金言と御指導】
■難があってこそ正義の人である。反対に、見栄を張り、自分だけいい子になって、傷つかないように要領を使う――それは悪人である。(1998-09-22)

■迫害の口実は「虚事(そらごと)」――事実無根の作り話、“でっちあげ”を使う場合が、あまりにも多い。日蓮大聖人は、窪尼へのご消息の中で、次のように述べられている。
『さて、熱原のことだが、今度のことからもわかるであろう。以前のことも、嘘だったのである』(P.1478)と。
つまり、熱原法難が偽の御教書(みぎょうしょ)による不当な弾圧であったこと、佐渡流罪の時にも、勝手に偽造した御教書が三度も出されたことを明かされている。
大聖人は、そうした策謀に隠された「真実」を、全て見抜かれ、ことごとく打ち破られている。
そして、「騙されてはいけない」「鋭く見破っていきなさい」と、門下に繰り返し教えられているのである。
偽りだらけの社会である。「何が真実か」を見抜く鋭い「知恵」をもつことが、絶対に必要となる。「虚偽」に基づく中傷は、ある意味で止めようがない。こちらがどんなに正しくとも、勝手に作り上げて騒ぐのだから仕方がない。まさか、相手の口に蓋をするわけにもいかない。
だが、その「虚言」にだぶらかされてしまうのでは侘しいし、それでは負けである。いささかたりとも紛動され、動かされては、相手の思うつぼである。そして結果は、自分が苦しむだけである。また、家族等をも、惨めな状態に陥れてしまう。(1991-05-17)

■仏法の眼(まなこ)で見れば、自分より上位の者に責められる、迫害されることが「法華経の行者」の証明である。日蓮大聖人はこう仰せである。
『上が日蓮を責められるからこそ、日蓮法華経を信じていること(法華経の行者であること)がはっきりと目に見えてわかるのである。』(P.950)
「上」、すなわち、地位においても、権威・権力においても、自分より上位の存在に迫害されることによって、法華経を正しく行じている一つの証明となるのである。(中略)自分より「下」の者にいろいろと批判されるのは、「法華経の行者」の証明とはならない。「上」の人から弾圧されて、初めて本物なのである。(1991-03-09)

■『名誉や利益を求めることばかり重く考え、まじめな求道心はいたって軽い』(P.1438)
真実の深き見識も、民衆への慈愛もない、悪しき権威の存在に、幻惑され、騙されて、正しき道を失っていくとしたら、人間としてこれほど愚かなこともない。(1989-03-04)

■大聖人は『私の言葉は、大慢に似ているように思えるかもしれないが、それは、仏の未来記を助け、如来の言葉が真実であることを顕すためである』(P.507)と破折されている。
たとえ慢心のように思われたとしても、仏語の真実を証明するためには、言うべきことは断じて語っておかねばならない。(1991-08-17)

日蓮大聖人は、正法破壊の僧侶について『彼らの首を由比ヶ浜で切らなければ、日本国は必ず滅びるであろう』(P.287)とまで仰せになっている。
《「首を切る」との言の真意について、「立正安国論では『布施を止める』(P.30)」すなわち悪僧への供養をとめ、悪僧として生きていけなくすることにあるとされている》
大慈大悲の大聖人が、それほどの厳しい表現をされるくらい、悪僧の害毒は深く、恐ろしいのである。その怖さは、どんなに強く言っても言いすぎることはない――このことを、そして悪の根を断つ“精神”を教えられていると拝される。
絶対に甘く、簡単に考えてはならない。『仏法は勝負』(P.1165)であり、勝負に中途半端はない。(1992-04-17)