『嫉妬で身を滅ぼした堤婆達多』

《6月25日更新:5》

『臆病物をぼえず』。偽善者の言動に、私の正義の怒りは更に燃え盛っている!!


【『法華経智慧』第3巻 池田大作

■●遠藤―権力というのは、自分たちの安住している世界像が崩されようとする時は、たとえ真理であってもそれを否定し、猛烈に反撃してきますね。

■●名誉会長―知識は善人を一層善人にし、悪人を一層悪くするものです。
彼の奥低の一念が、「信仰者」の一念ではなく、「野心家」の一念だったのではないだろうか。「信仰者」とは、「自分を支配しよう」とする人間です。「野心家」あるいは「権力者」とは、「他人を支配しよう」とする人間です。

■●名誉会長―どんなにもっともらしいことをいっても、結局、堤婆達多にとって宗教も自分の野心のための手段だった。この時の言動によって、堤婆達多の醜い一念は、はっきりする。
(中略)
堤婆達多は、「皆の前で恥をかかされた」と思ったとされているが、そう感じること自体、もはや謙虚な「弟子」の心がなくなっていたことを示している。ちっぽけな自尊心のほうが、求道心よりも上回ってしまっていた。
あるいは、釈尊は彼に、その前から、だれもいない所で注意を与えていたのかもしれない。それでも変わらなかったので、皆のいる所で叱ったのかもしれません。

■●名誉会長―悪人は、絶対に「自分は悪人です」という顔はしない(笑い)。悪知恵というか、奸智(かんち)です。
(中略)
自分の見栄や策謀で、偽善的に清貧ぶったり高潔ぶるのは、宗教利用と言わざるを得ない。要は、堤婆達多は「釈尊よりも自分が尊厳されたい」と熱望した。嫉妬です。
(中略)
堤婆達多は、釈尊が皆から尊敬される姿だけを見て、釈尊の「内なる戦い」を見ようとしなかった。(中略)なぜ見えなかったのか。それは彼自身が自分との戦いをやめていたからでしょう。「内なる悪」を自覚し、その克服に努力しなければ、とたんに悪に染まってしまう。その意味で、「善人」とは「悪と戦っている人」です。

【御指導】
■いつの世でも「反逆者たちは、もっともらしい言辞を弄して、みずからの行為を正当化する」ものだ。
しかし大聖人は、その本質を『世間の恐ろしさ』と『欲』、すなわち“見栄”“臆病”と“私欲”である、と喝破されている。(1988-05-22)