■●名言会長─彼の奥低の一念が、「信仰者」の一念ではなく、「野心家」の一念だったのではないだろうか。「信仰者」とは、「自分を支配しよう」とする人間です。「野心家」あるいは「権力者」とは、「他人を支配しよう」とする人間です。
「信仰者」は、自分が動き、自分が苦労し、自分と戦う人間です。「権力者」は、人を動かし、人に苦労をさせ、自分を見つめない人間です。
堤婆達多は、慢心のためか、自分で自分を見つめられなくなってしまった。結局、信仰者としての軌道を踏み外してしまったのです。

■●名言会長─堤婆達多は、釈尊が皆から尊敬される姿だけを見て、釈尊の「内なる戦い」を見ようとしなかった。苦悩の人々を救うため、全人類に自分自身の生命の宝を気づかせるために、釈尊が日夜、人知れず、どれほど苦心していたか。どれほど自分自身と戦い、苦労に苦労を重ねていたか。その苦闘を彼は見ようとしなかったのです。
なぜ見えなかったのか。それは彼自身が自分との戦いをやめていたからでしょう。「内なる悪」を自覚し、その克服に努力しなければ、とたんに悪に染まってしまう。(中略)
●斉藤─内なる悪を自覚する──ということは「一念三千」ですね。極善の仏にも、地獄界の堤婆達多の極悪の生命がある、というのが、十界互具であり、一念三千ですから。
●名言会長─その通りです。その意味で、法華経の一念三千は、究極の内省の哲学です。自分は特別に尊いのだ、などという傲りをだれ人にも許さない平等の哲学です。人間尊厳の哲学です。

(「法華経智慧」第三巻)