仏の慈悲は、完全に平等であり、差別はない


●名誉会長─法華経という「大宗教文学」のなかでも、三草二木の譬(たと)えには独自のおもしろさがあります。それは、“衆生の多様性”を強調していることです。これは法華経の七譬(しちひ)の中では唯一です。また、それによって、同時に“仏の慈悲の平等性”が浮き彫りにされているのです。
仏の慈悲は、完全に平等であり、差別はない。一切の衆生を“我が子”と見て、自分と同じ仏の境涯へと高めようとしている。
それは「衆生に差異がない」からではない。「仏が衆生を差別しない」のです。むしろ仏は、衆生の違いを十分に認めている。衆生の「個性」を尊重し、自分らしさを存分に発揮することを望んでいる。
衆生に違いがあるからといって、偏愛したり、憎んだりしない。個性を愛し、個性を喜び、個性を生かそうとする──それが仏の慈悲であり智慧です。
●須田─薬草喩品にはこう説かれています。
「我一切を観ること 普く皆平等にして 彼此(ひし) 愛憎の心有ること無し 我貧著(とんじゃく)無く 亦限げ無し 恒(つね)に一切の為に 平等に法を説く 一人の為にするが如く 衆多(しゅだ)の為にも亦然なり」(法華経288ページ)
仏はつねに、すべてのもののために平等に法を説く。彼と此れとわけ隔てる心や、愛憎の心などもなく、まさに一人のために説くように、多くの人々に説くのだ──と。
●名誉会長─大事なことは「人間の多様性を認めるところから、仏の説法が出発している」という点です。
状況も違う、個性も違う、機根も違う具体的な一人一人をどうすれば成仏させることができるか。個々の人間という「現実」から一歩も離れずに、成仏への道筋を明かすのが法華経です。
“一人を大切に”こそ、法華経の「人間主義」であり、「ヒューマニズム」なのです。それが「仏の心」です。“一切衆生の成仏”という法華経の根本目的も、“一人を大切に”から出発し、そこを徹底させる以外にないのです。
抽象的な「人間愛」や「人類愛」なら簡単です。現実の個々の人間への慈愛は難しい。
ドストエフスキーは「人類全体を愛するようになればなるほど、個々の人間、つまりひとりひとりの個人に対する愛情が薄れてゆく」、「抽象的に人類を愛するということは、ほとんど例外なく自分ひとりを愛することになる」と言っている。
創価学会は、具体的な「一人」から離れず、その「一人」を絶対に幸福にするために戦ってきた。これは人類史に燦然と残る崇高な歴史です。
●遠藤─まさに法華経は、他のどこにあるのでもない、「今、ここに」ある、創価学会にあるのですね。

(『法華経智慧』第二巻 池田大作)