疵(きず)を蔵(か)くし徳を揚げて自ら省ること能わざる

●斉藤─確かに、「諂曲(てんごく)」とある通り、かなり「曲がって」います。
●名誉会長─そう。心が「曲がっている」から、自分についても、相手についても、正しく見ることができない。「慢」という「ゆがんだレンズ」を通して見る自己像は常に大きく、素晴らしい姿をしている。だから、人から学べないし、自分を反省することもない。人間としての成長がない。
「御義口伝」には「上慢(増上慢)」と「我慢」についての文句記の文を挙げられています。「疵(きず)を蔵(か)くし徳を揚ぐは上慢を釈す、自ら省みること能わざるは我慢を釈す」(御書P.718)と。
●斉藤─自分の欠点を隠し、徳を宣伝するのが「増上慢」。特に、仏道修行の成果を得ていないのに、得たと傲ることです。そして、自分勝手な考えに執着して、反省しようとしないのが「我慢」です。
(『法華経智慧 第四巻』 池田大作)

【御指導】
■いつの世でも反逆者たちは、もっともらしい言辞を弄(ろう)して、みずからの行為を正当化するものだ。 (1988-05-22)
■これまで学会に大恩がありながら、反逆していった人間も、肩書や出身、学歴、立場等にとらわれる慢心が必ずあった。ゆえに、叱られたり、自分のわがままが通用せず、自分の思いどおりにいかないと、それを「自分のせいだ」と自覚できないで、「人が悪い」「学会が悪い」と逆恨みしてしまった。そこには、謙虚に法を求める姿勢も、師弟の精神も、まったくない。 (1992-10-22)