ブログ「斧節」を斬る!3

◎「観ることは止まることである」
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20101202/p2/

>>「愚かな連中は『人間革命』第3巻に書かれた和泉さんの体験を引き合いに出すことだろう。お前らは、死ぬまで他人の体験を語りながら自分の人生を置き去りにするがいい。」(小野)
●同志の方の尊い体験を馬鹿にするな!!「道理証文よりも現証にはすぎず」(P.1468)とある通りだ。お前は御聖訓の「随喜する声を聞いて随喜し」(P.1199)に真っ向から反発する生命の持ち主だな。
「毀謗と云うは即不信なり」(P.97) 他人の体験を聞いても生命の感化を受けない無感動のロボットのようだ。結局、「自分の人生を置き去りに」しているのはお前自身だ。

>>「子が亡くなった事実を親がどう解釈するかということだ。私は「物語」の話をしているわけではない」(小野)
●お前は他人の悩みに心から同苦したことがないだろう。人間の“心のひだ”も解らずに論ばかり追う冷たい人間だな。「私には寂しいという感情がない」と過去に何度かブログで豪語していただけあって、人のナイーブな心情に思いを馳せることがてきないのもこの一文からよく判るよ。人間の感情をも自分の浅はかな論理でしか推し測れない。そんな自分の宿業を悩むのが先だろう。

>>「既に因果という概念が揺らいでいるのだ。それにしては危機感を抱いている人が見当たらない(笑)。」(小野)
●でた!この言い方は、お前が邪見を強引に押し通す時の手口だ(爆)。こうやって何も言わせない雰囲気を作っていく、いつものパターンだ。
日蓮が法門を仮染にも毀(そし)るは糞犬(やせいぬ)が師子王をほへ癡猿(こざる)が帝釈を笑ふに似たり。」(P.890) 蘊蓄を垂れる前に、大聖人様から糞犬、癡猿と喝破される言動を吐く自分を恥じよ。

>>「一生成仏は日蓮が与える立場で説いた可能性は否定できない。だがそれでは調機調養以下のレベルに堕してしまう。」(小野)
>>「真理は一つであるが表現は異なる。」(小野)
●「舌に任せたる言(ことば)なり証拠無き故に専ら謗法なる可し」(P.135)
「其の智牛馬にもおとり螢火の光にもしかず」(P.883)
「凡眼を以て定むべきにあらず浅智を以て明(あきら)むべきにあらず、経文を以て眼とし仏智を以て先とせん」(P.1206)
「此の事何れの経文ぞや文証の所出を知らず我意の浮言ならば之を用ゆ可からず」(P.122)
「邪智にして心諂曲に未だ得ざるをこれ得たりと謂い我慢の心充満せん」(P.81)
宗教学者でもないお前が、簡単に論じれる問題ではない。見栄を張るな。

>>「観心の本尊を見つけた人っている?私はまだだ。」(小野)
●落とし物でもあるまいし、見つけるものではない。第一、科学者でもないのに、深遠な仏法の真理を科学的見地から論ずるのは無理だ。ましてや、(科学が仏法に接近しつつあるのは事実だが)全容はまだ研究段階であるのは既知の通りだ。
生命を機械のように捉えようとしても、全体像は見えない。一念三千や因果を原理として理解しようとしても無駄な努力だ。科学信仰に跪いるのは誤った態度だ。相対的な科学の知で、仏法の絶対的な真理の真実性は左右されないし、生命は、物理学的な因果律に支払される機械でもない。現実生活を離れた理論のなかには仏法の真髄はない。足元の現実こそ仏法なのだ。実証こそが、この仏法の真理を物語っている。
「三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり智慧とは南無妙法蓮華経なり」(P.725)
「信の外に解無く解の外に信無し信の一字を以て妙覚の種子と定めたり」(同)
「信は智慧の種なり不信は堕獄の因なり」(同)
「疑い無きを信」(同)
御書には「信」が繰り返し強調されている。この「信」を大前提にして始まるのだから、無明と不信の闇の中にいる内は理解できるはずがない。そもそも、論理で理解しようと試みてわかるものではない。「以信得入」、「信解」だ。強い「信」の力だ。お前が得意とする観念の遊戯では絶対にない。
また、一念三千を体得するには三障四魔と戦って勝たないといけないが、魔に食い破られたお前には難事中の難事だろう。だから結局、お前は言葉だけの観念に陥り邪見で説いておきながら、傲慢にも一人悦に入る。「有名無実」か。御本尊様への信心なくしてわかるわけがない。戸田先生の御指導にもこうある。『末法の悟りとは何か。それは御本尊を信じきるということだ』と。
それよりも、お前には題目の体験もなければ、師弟不二の不惜身命で戦ったことも、さらには一念に億劫の辛労を尽した闘争もしたことがないのがバレバレだぞ。
本当の決意を込めた題目を唱え、全身全霊で戦えば、必ず結果として生命空間の拡大があるし、境涯が開く。祈りも叶う。結果も出る。これは絶対だ。その経験が何一つないから一念三千の宇宙の大ドラマも因果もわからないのだ。それだけならまだしも、あろうことか、自分勝手な我が儘が通用せず、反逆までした裏切り者に陥ってしまった。
「信は道の源功徳の母と云へり」(P.97) 論理として説明できなくとも、学会員はそれぞれがそれぞれに素晴らしい体験を持っている。生命で実感し、体験で掴んでいる。その学会員に向かって、こんな毒演会をするとはお粗末の一言に尽きる。
お前の愚論では「観ることは止まること」らしいが、前進も成長も歓喜も感謝もなく暗闇で立ち往生しているのはお前一人だ。

【御金言】
■問うて云く信而不解の者は謗法なるか答えて云く法華経に云く「信を以つて入ることを得」等と云云、涅槃経の九に云く難じて云く涅槃経三十六に云く我契経の中に於て説く二種の人有り仏法僧を謗ずと、一には不信にして瞋恚の心あるが故(P.459)
■未だ位深からず信心薄く口に誦すれども其の義を知らず一向名利の為に之を誦す(P.84)
■世間に智者と思はれたる人人・外には智者気(げ)にて内には仏教を弁へざる(P.111)
■黒闇の人豈道を論ず可けんや(P.112)

【代表幹部協議会での名誉会長のスピーチ】
日蓮仏法では「無作三身」と説く。本来ありのままの仏の境涯を、「信」によって得ることができるのだ。見せかけの虚飾などいらない。偉そうに、ツンとすまして話していては、友の心に響かない。特に、青年の前では、そうだ。(2009-11-27)

青年部を、学会員を舐めんなよ!!!!