雰囲気に流される弱さを打ち破れ─師匠

◎ブログ「斧節」を斬る!3
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■ともあれ、大切なのは「智慧」である。智慧を体得することです。(中略)あるイギリスの思想家は書いています。
「知識がありながら智慧がないよりも、知識はなくとも智慧があるほうがよい。それはちょうど、鉱山をもちながら富がないよりも、鉱山はなくとも富があるほうがよいのと同じである」(チャールズ・C・コルトン 『ラコン』)
智慧も知識も両方あるのが理想ですが、根本は智慧である。目的は「幸福」であり、知識だけでは「幸福」はないからです。
その意味で、二十一世紀を幸福にするには「智慧の世紀」とする以外にない。
そして知識は伝達できても、智慧は伝達できない。自分が体得するしかないのです。実はそこに、法華経が「師弟」という全人格的関係を強調する一つの理由もあるのです。
(『法華経智慧 第一巻』 池田大作)

■悟りとは単なる認識ではない。ここが大事です。永遠の生命は認識するものでなく、それを生きるものです。修行が必要なのです。なぜならば、認識しようとしても、そうしようとしている自己自身をも支えているのが「生命」だからです。「波」に「海」をつかむことはできない。「小」で「大」をつかむことはできない。では、どうするのか。
大いなる永遠の生命を、小さな我が身の上に顕現する──湧現する──以外にないのです。そのためには、全存在をかけた自己浄化が必要です。それが仏道修行です。
(『法華経智慧 第三巻』 池田大作 以下同)

■●名誉会長─「脳」は「心の道具」であり、精神現象が働く「場」であるという考え方もある。
脳の働きなくして、心は自己を表現しようがないが、両者はあくまで別の存在です。現代的に言えば、脳は素晴らしいコンピューターであるが、あくまで道具である。それを使っている主体は「心」である──とも言えるでしょう。
人間の「心」は、多くの現代人が考えているような、身体や脳の中に“閉じ込められた(局在的な)”存在ではない。そのことは、科学的研究によって解明されつつある。心はもっと広大で、物質的な束縛を超えた広がりを持っているのです。
たとえば、アメリカの臨床医師ラリー・ドッシー博士は、こう述べている。「心は空間や時間に制約されず、人間同士の意識を結びつけるものであり、肉体と共に滅びるものではない」(『魂の再発見──聖なる科学をめざして』上野圭一・井上哲彰訳、春秋社)。
時空を超えた「心」とは「非局在的な心」──すなわち小我を超えた広がりをもつ心のことです。
「もし非局在的な心が実在だとするならば、世界は孤独と分離ではなく、相互作用とつながりの場になる。そしてもし人類が非局在的な心を実感することができれば、新しい価値基準が生まれる。人間や国家を長年支配し続けた狂気から、あっけなく抜け出すことが可能かもしれない」(同)。
●遠藤─心の無限の広がり──。「一念三千」の法理が示しているのも、まさにその一点ですね。

■『今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり』(P.1304)
「此れより外の才覚無益なり」──これだけ知っていればいいのだ。他の理屈や知識は「無益」なのだと。たしかに「御本尊を拝している自分が多宝の塔なのだ」とわかれば、あとは何もいらないのです。
こうして法華経を学ぶことも、その「眼目」を確認し、確信を深めるためであり、また多くの人に語るためであって、それを外れた知識は、成仏のためには「無益」となってしまう。

【御指導】
■「観心」とは『自分自身の心を観じて、自己の生命に具足している十法界を見る』(P.240)義である。この御文について、日寛上人は「『我が己心を観ず』とは、即ち本尊を信ずる義なり」(文段集)と釈されている。無二の「信心」によってこそ、「観心の本尊」の無限の功力を身に受けることができるのである。(1991-01-15)

【わが友に贈る】
■我ら民衆こそ 歴史を創(つく)る主人公。「よし、やるぞ!」と今日も一歩前へ!共々に喜び勇んで。
(聖教新聞 2010-12-03)



12月3日更新:2