因果を弁えないことは、まるで赤ん坊の様な幼稚さである(P188)

【新・人間革命 厳護二十八】
■自ら労せず、楽をして、利益や地位、立場、栄誉などを手に入れることができれば、どんなに幸せかと考える人は少なくない。そのために、富や権力をもつ人に媚びへつらって生きる人もいる。要領主義で、うまく人生を泳ぎ渡ろうという人もいる。
また、立身出世を遂げた人を羨み、嫉妬したり、時には、謀略を駆使してまで、他人を蹴落とそうとする人もいる。
そうした生き方の背景には、自分の外の世界に、幸せがあるとの迷妄がある。(聖教新聞 2011-01-12)

【御指導】
■「ある人が人々のために道をつくった。その道に迷う者があるからといって、道をつくった人の罪といえるだろうか、いやそうではない」(P.257)
この御文は、機根の悪い愚人が大法を誹謗して悪道に堕ちてしまうならば、それは大法を説いた人の罪ではないか、という質問に対する答えである。
それはそれとして、いつの世にも、先人が苦労して切り開いた道を、何の感謝もなく偉ぶって歩いていくだけの傲慢な人間がいる。そうした人間にかぎって、自分の過ちで道に迷ったのに、それを人のせいにしていくものである。そのような人生はあまりにも卑しい。愚劣な生き方であり、またむなしいものだ。
諸君は、何かあると責任を人に転嫁するような生き方だけは絶対にしてはならない。(1988-07-10)
■(※四聖や三仙は)それぞれ「因果」についての独自の説を主張した。しかし結論していえば、それらは皆、仏法の初門も知らない偏見に執着したものである。
どんな大学者であれ、有名人であれ、財力、権力の人であれ、自身の「生命の因果」に通じているとは限らない。にもかかわらず、心おごれるあまり、この根本の重大事について、真剣に、また謙虚に求めていかないとしたら、あまりにも愚かであり、残念なことである。その錯誤は、永遠にわたる生命の軌道に、決定的ともいえる狂いを生じさせていくからだ。
大聖人は、ある邪見の僧に対し、「短い今世における大増上慢によって、未来永劫に迷い苦しむ因を植えつけてはならない」と大慈悲をもって破折されている。よくよく心にきざむべき御金言であると拝される。(1988-04-29)

1月27日更新