信なき言論、煙の如し!

・「斧節」2月15日の記事
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20110215/
◎『検索はまだ全然ダメだ』
前半と後半の文章の整合性がない。
お前は、たとえば、この直前にアップした次のような抜き書き(『「無縁社会」を恐れる損得勘定』)を“正当な批判”だとでも思っているのか?どう読んでも偏見にしかみえないが。
また、お前は何をもって学会が“組織衰退”しているとみているのか私にはさっぱり分からないが、今日の学会の厳然たる発展の姿の前には、どんな詭弁も虚しいだけだ。

◎『コペルニクスに対する批判』
>>「科学的アプローチで宗教を見極めることが求められる。ここにおいて信仰体験は斥(しりぞ)けられる。なぜなら体験は証拠と見なすことができないためだ。」(小野)
それなら、科学の知識を持っている人だけが宗教の正邪を判別することができ、高度な科学的見識を持ち合わせていない限り、折伏や破折をするのが不可能になるのか…。とんでもない愚論だな!馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
■経文によって説明できない者は、すべて、邪(よこしま)であり、偽りである。かの外道と同じである。(P.148、通解)
>>体験で正誤を判断するのであれば、マルチ商法の健康食品販売はすべて正当化されてしまう。それゆえ日蓮が説く現証は、「現実の証拠」ではなく「現実の事象」として捉えるべきだろう(小野)
そもそも、利害の絡んだ商売と純粋な信仰体験を同じ畑で論じること自体おかしいだろ。
「相構へ相構へて心の師とはなるとも心を師とすべからず」(P.892)、自分中心の我論を書き殴る暇があれば、死に物狂いで題目を唱え、一つでも自身の体験を掴んでみよ!「道理証文よりも現証にはすぎず」(P.1468)だ。

2月17日更新:1