不信は一闡提謗法の因(P.339)

・斧節 『殺人容疑:「30年前乳児殺害」自主の女を書類送検』
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20110421/
>>「ご利益が得られないので反省した」ってな話だわな(笑)。創価学会にも同じタイプが多い。(小野)
■我意の浮言ならば之を用ゆ可からず(P.122)
■三惑未断の凡夫の語録を用いて四智円明の如来の言教を軽んずる返す返す過(あやま)てる者か、疾(やまい)の前に薬なし・機の前に教なし・等覚の菩薩すら尚教を用いき底下の愚人何ぞ経を信ぜざる(P.153)
■日蓮大聖人は、松野殿が質問された『聖人が唱えられる題目と、私たちが唱える題目と、その功徳に違いがあるのでしょうか』(P.1381)との疑問に対して、『違いはない』(同)とされたうえで、『ただし、法華経の心にそむいて唱えれば違いが出てくる』(P.1382)と教えられている。
その「法華経の心にそむく」ことを、具体的に述べたのが十四誹謗である。いいかえれば、十四誹謗がなければ、唱題の功徳は同じであり、計り知れないと述べられているのである。(中略)
『悪因には十四の謗法がある。一にきょう慢、二に懈怠(けたい)、三に計我(けいが)、四に浅識、五に著欲(ちゃくよく)、六に不解、七に不信、八に顰蹙(ひんしゅく)、九に疑惑、十に誹謗、十一に軽善、十二に憎善、十三に嫉善、十四に恨善である』(同)と。
この法華文句記の文は法華経譬喩品の「若し人は信ぜずして、此の経を毀謗(きぼう)せば、即ち一切世間の仏種を断ぜん」(法華経P189)との有名な文を含む一節を釈したものである。法華経、すなわち「正法」への誹謗と、「正法を信じ行ずる者」への誹謗が、ともに地獄の因となることを明かしている。(御指導、1990-12-03)
■此の十四誹謗は在家出家に亘(わた)るべし恐る可し恐る可し(P.1382)
併せて御書P.754〜756、1行目の熟読をお勧めする。

4月23日更新:3