師匠は大地の如し(中略)師弟相違せばなに事も成べからず(P.900)

・斧節『みずからの歪んだ姿に世界は対応』
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20110425/
【御金言・御指導】
■師にあわなければ邪な智慧が日ごとに増し、生死の苦しみは月ごとに甚だしい。密林に曲がった木を曳(ひ)くように、生死の苦しみから出る時期がない(153頁、通解)
■法華経を正しく受け継いでいて当然の、天台宗の人びとまでたぶらかされて、金(真実の教え)と石(仮の教え)とを、まったく同じものと思い込んでいる人びともいるのです。(214頁、通解)
■『金剛宝器戒(こんごうほうきかい)』(1282頁)について申し上げておきたい。
「戒」とは何か。これには『防非止悪(ぼうひしあく)』(744頁)すなわち「非を防ぎ悪を止(とど)める」意義がある。「非」とは非法であり、道に外れることである。「悪」とは悪果であり、人間の苦悩をさす。
わかりやすくいえば、「戒」とは、仏道修行する人が、生命の正しき“法”の軌道を外れないように防ぎ、苦しみがもたらされないように暴走をストップさせる、そのための、いわば“防波堤”となる規範である。そして「戒」を持(たも)つことによって、生命のなかにもしだいに「非」と「悪」への“防波堤”が築かれる。これによって修行者は正しき“法”にのっとった自分を築くことができる。これが「戒」の目的である。
また「戒」は、仏法を修行する者が必ず修学しなければならないとされた「戒(かい)・定(じょう)・慧(え)」の三学の一つである。すなわち「戒律」を持つことによって、生命の乱れを防止して、心を整え(「禅定(ぜんじょう)」)、その澄みきった清浄な生命のなかから成仏への「智慧」を生じさせる。これが、三学を修める根本の目的である。
ゆえにめざすのは、あくまで自身の仏界を自覚する「智慧」であり、「戒」はその手段である。決して「戒」そのものが目的ではない。末法の現代においては、「以信代慧(いしんだいえ)」すなわち『信を以(も)って慧に代(か)う』(339頁)と説かれているように、智慧の修行の代わりに、ただ妙法への「信心」に励むことによって法の智慧を得、仏界を湧現することができる。ゆえに御本尊を信受し、持ちきっていく、それのみが末法の「戒」となる。これが「金剛宝器戒」である。(1988-03-26)

4月26日更新