修羅は帝釈を怨みて日天を・いたてまつる其の矢かへりて我が眼にたつ

・斧節『野心を持つ人は自滅している』
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【御金言・御指導】
■たまたま宿善があって真実の教え(法華経)の道に入りながら、自ら退転し、一切衆生を経化して権教(真実を説いていない仮の教え)にかえらしめ、そのうえさらに、真実の教えである法華経を破壊せしめる。ということは、これはまさしく悪師ではないか。(56頁、通解)
■権大乗を以て実大乗を破し師弟共に謗法破国の因縁を知らざるが故に破仏戒・破国の因縁を成して三悪道に堕するなり。(81頁)
■経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賎憎嫉(きょうせんぞうしつ)して結恨(けっこん)を懐(いだ)かん乃至其の人命終(みょうじゅう)して阿鼻獄に入らん(291頁)
■ある人が道をつくる。その道に迷う者がいる。それは道をつくった人の罪となるであろうか(否、それは迷う者の罪である)(257頁、通解)
■想像してわかりやすくいえば、たとえば、こんなふうでもあろうか。
「いやぁー、私たちもたいへんなんですよ。日蓮御坊は、もう折伏一点張りで、あれでは難が起きるのは当たり前ですよ。世間の非難も、もっともです。他にもっといいやり方があると私たちも思うんですが……」等々。
このような臆病な門下の言動を、大聖人はすべて熟知しておられたと拝される。利口げに大聖人を批判しつつも、その本質は世間を恐れ、また心の底では正義の大聖人を恐れている──。いずれにしても、確たる信念に立てない臆病と傲慢の生命であった。いな、彼らは傲慢であるゆえに、臆病であった。自身の小さな我に執着し、名聞や名利にとらわれるがゆえに、批判や攻撃が怖かった。
反対に、大法に生き、殉じていこうという、晴れやかな堂々たる信念のまえには、何ものも恐れるものはない。(御指導、1988-04-10)


同志を憎み、環境を恨み、破和合と化したお前は人生の敗北者だ!
“なんとしても弟子を勝たせたい”との師の慈愛の万分の一も解らない恩知らずめ!
「自ら省ること能わざる」(718頁)。「愚癡無懺(ぐちむざん)の心を以て」(152頁)。人でもない、状況でもない。『師弟』、この重大な一点が欠落しているから道を外れてしまうのだ。また、本物の信念に生きているならば、どのような苦しい状況に陥ろうが、愚痴などでないはずだ。
学会や幹部、組織の批判ばかりし、結果、自分自身が醜い生命に蝕まれ、自分自身を卑しくしている。結局は、純粋な信仰心がなく、我尊しと傲り、同志を見下しながら戦ってきた修羅の命を変革できなかった負け犬じゃないか!どんな立派な言い訳をしようとも、負けは負けだ。己に負けたのだ。

5月25日更新:1