邪義に対し一歩も退かぬ勇気を持て─戸田先生

●もし菩薩がいて、悪人をかばい、その悪を罰することができず、そのために、かえって悪を増長させ、善人を悩ませ、混乱させ、正法を壊してしまうならば、その人はじつは菩薩ではない。この者は、外に向かっては、人を詐(いつわ)りあなどって、つねにこう言うであろう。『私は耐え忍んでいるのです』と。こういう人間は、死んだならば(自分が責めなかった)悪人たちと一緒に地獄に堕ちてしまう(p.1374、通解)
●「仏の正法を弘めようとする者は、教典の教えの意義を誤って説く者を聞いたり見たりしたならは、みずからこれを責めなさい。もし自身の力が足りなければ、国主に訴えてでも、対治(たいじ)しなさい。そうしない人は仏法の中の敵である。もし経文のとおりに、他人を恐れず、みずからも悪侶らを責め、国主にも訴える人は、仏弟子であり、真の僧である」(p.496)
悪侶に対しては、みずから責め、それでも足りなければ、国主に訴えてでも責めよ、と厳然たるご命令である。今、民主主義の社会にあっては、国主とは、民衆であり、広く民衆に訴え、公の社会問題として糾弾していくことをさすともいえよう。一人一人の鋭い破折と社会的な告発と、その両面から責めていくのが、経文に合致した戦い方と信ずる。(御指導、1992-02-29)

8月24日更新:1