よき弟子をもつときんば師弟仏果にいたり(p.900)

●戸田先生は、「学問的な研究の教学」と「信心で掘り下げていく教学」があると言われたことがある。
不二の師弟として、戸田先生も私も、「信心で掘り下げていく教学」で戦ってきた。だから学会は勝った。実践のなかで教学を学んだ学会員が堂々と勝ってきたのだ。 (随筆「我らの勝利の大道 60」 聖教新聞 2011-09-10)
●兄・堤婆の違背の姿に対して、弟の阿難は愚直なまでに師・釈尊につき従っていった。日蓮大聖人は次のように仰せである。
『南無という字は、敬う心をあらわし、また随順する心をあらわす。ゆえに阿難尊者は一切経の初めに、如是我聞(このように私は仏より聞いた)と書いたうえに、南無等と記されたのである』(p.1421)と。
正しき「師」と「法」を、どこまでも「敬う心」そして「随(したが)う心」──まさに、このもっとも崇高なる信仰の心をもって、阿難はわが人生を生ききった。これこそ真実の仏法者の生き方であったし、われわれもまた、そのような崇高な信仰者としての生涯でありたいと思う。 (御指導、1988-06-17)

9月20日更新