厳たる実証

【新・人間革命 福光三十一】
●一九五四年(昭和二十九年)の六月、管田留太郎は創価学会に入会し、御本尊を受持した。しかし、夫が信心を始めたことに、妻の歌枝は憤慨した。彼女は、自分の体験から、宗教は“うさんくさいもの”と痛感していたからである。
普段は、柔和な歌枝だが、夫が勤行をすると、同じ部屋で、御本尊に背を向けて、大声で他宗で習った経を読んだ。
「正法を信じ、実践すれば、必ず魔が競い、反対される」と聞かされていた留太郎は、微動だにしなかった。歌枝には、それがまた、しゃくに障(さわ)った。
入会を機に、留太郎は、日増しに健康を回復していった。一方、歌枝は、激しい頭痛に襲われるようになった。病院でも原因がわからず、痛みで一睡もできぬ日が続いた。
夫の結核は、完治するまでに二、三年はかかるだろうと診断されていたが、入会から半年後に、職場に復帰することができた。
この厳たる実証の前に、歌枝は感服せざるを得なかった。留太郎より八ヶ月遅れて、信心に励むようになった。
正法に目覚めた歌枝は、夫も驚くほどの広宣流布の闘士となった。“友人、知人は、一人も残らず幸せになってほしい!”と願い、次々に仏法対話していった。
三人の子どもを抱え、暮らしは、決して豊かとはいえなかった。しかし、彼女には、希望があった。信仰の歓喜と確信があった。弘経に歩くことが、楽しくて仕方なかった。
歌枝は、平凡な一人の主婦にすぎない。その自分が、広宣流布という、人びとの幸せと社会の繁栄、さらには人類の平和を実現する使命を担っているのだと思うと、人生の新しい世界が開かれ、喜びに胸が弾むのだ。
彼女は、東京での、文京支部日本橋地区の会合にも、勇んで出かけていった。常磐線の各駅停車に揺られ、福島県から茨城県に入る。茨城県を縦断し、千葉県を越えて、五時間近くかかって、東京の会場に到着するのである。でも、苦には感じなかった。 (聖教新聞 2011-10-07)

10月7日更新:4