正法を聞くことを喜ばないのを「嫉(しつ)」という(p.200、通解)

・斧節『ヘンペルのカラス』
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20111008/
●唯人師の釈計りを憑(たの)みて仏説によらずば何ぞ仏法と云う名を付くべきや言語道断の次第なり(御書p.462)!!

>>命題:すべての創価学会員は幸福である=すべての幸福でない者は創価学会員ではない
この命題は一人の不幸な創価学会員がいれば成り立たない。では次はどうか?
命題:100万遍の唱題をすれば祈りはかなう=祈りがかなわなければ100万遍の唱題ではない(小野)
いづれも仏説に証拠分明に道理現前ならんを用ゆべし(御書p.1293)
なんとも馬鹿馬鹿しい命題だ。

>>論理学および数学的なアプローチの前では、一念が強い弱いなどという言いわけは通用しない。(小野)
●世の中で、智者と思われている人びとは、外面ではいかにも智者らしく振る舞っているが、内面では仏教をわきまえていない(御書p.111、通解)
●自分の邪義に少しでも合わない経文があると、道理を曲げて、なんとか筋道をとおそうとし、無理に自分の邪義に合わせる(同p.45、通解)
●大聖人の御法門を世に立てることなど思いもよらず、大いに破る者(同p.1732、通解)
この信仰は観念論ではない。自分の信心の確信のなさを、もっともらしく言い訳するのはよせ。「道理証文よりも現証にはすぎず」(p.1468)だ!

・『誹謗の者に親近すれば所修の善根悉(ことごと)く滅し(p.1374)』
http://d.hatena.ne.jp/yoshie-blog/20110717/

10月8日更新:2