苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ

●*名誉会長─法華経の説法自体が、「信」を大前提にして開始されているわけだね。
*遠藤─方便品の説法を聞いて、声聞(しょうもん)の中で初めに成仏の悟りに達した舎利弗(しゃりほつ)も、自分の智慧ではなく、信によって仏の悟りの世界に入ることができた〈以信得入(いしんとくにゅう)〉とされます。
大智度論に「仏法の大海は信を能入(のうにゅう)と為(な)し、智を能度(のうど)と為(な)す」と説かれるように、信から始まる仏道修行によって智慧を獲得し、その智慧の力によって「仏法の大海を度(わた)る」〈成仏する〉というのが仏教一般の原則です。
ところが法華経では自分の智慧を強調するよりも、信によって悟ると強調されます。まさに信が智慧の代わりになっています〈以信代慧(いしんだいえ)〉。
*名誉会長─ここに深い意義があるのです。法華経も「智慧」即「成仏」であることは同じです。
ただ法華経においては信の中に既に智慧が含まれている。それが「信解(しんげ)」です。
大聖人は「解とは智慧の異名なり」「信の外(ほか)に解無く解の外に信無し」(御書七二五ページ)と端的に教えてくださっている。
信なくして解(智慧)はないし、解(智慧)として現れない信もにせものなのです。
「解」とは「解脱」の解であり、「解放」の解にも通じる。一切の苦悩の鎖から解き放たれた自在・自由の境地。それが「解(げ)」であり、その智慧の境地は「信」によってのみ得られるというのです。 (『法華経智慧 第二巻』池田大作)

●現実生活の実証は、妙法の真理を雄弁に物語っているのです。(中略)私たち一人一人の勝利の体験が、多くの人に勇気と希望を与える。すなわち、その体験は、妙法の力を表す譬喩(ひゆ)となっているのです。人々が、その「一人の勝利のドラマ」を、さらに多くの人に語っていくこともできます。
牧口先生は、体験発表を中心とする座談会運動を創られた。難解な「理論」を表にして説くのではなく、わかりやすい「体験」を表として、妙法を人々に教えられた。
個別の体験は普遍の妙法の「譬喩」です。体験中心の座談会は現代の「譬喩品」であり、現代の「七譬(しちひ)」であり、「無量の譬喩」です。
慈悲と智慧の結晶である「譬喩」──法華経と同じ心に立って、創価学会は“布教革命”を巻き起こしたのです。
法華経の譬喩の心は、創価学会の六十五年の歴史の中に生きています。私たちは、末法万年にわたって語りつがれるであろう「法華経広宣流布」の物語を日々、馥郁(ふくいく)と綴っているのです。(同)

●「信解品の題号のうち「信」はお金に譬(たと)えられる。「解(知恵)」はそのお金で買う宝のようである」(御書p.725)
身近な譬えでいえば、一ドルの「信」では一ドルの「知恵」しか得られない。一万ドル、百万ドル分の「信」を起こせば、それだけ大きな「知恵」を、力を得ることになる。無限の「確信」には、無限の「知恵」がわく。ゆえに皆さまは「確信」の人であっていただきたい。その人には行き詰まりがないからである。そして賢明なる「知恵」の人として、わが使命の人生を悔いなく、最高に晴れやかに、最高に楽しく飾っていただきたい。 (御指導、1990-02-15)

10月8日更新:3